概 要
北条家の筆頭家老。北条家の重臣として政務に関与し活躍したほか。奉行と評定衆を務め、下総国・関宿の代官を兼務した。
ポイント
- 北条家の家老。松田憲秀の父
- 北条家内では一族に次ぐ権力を持っていた
- 奉行と評定衆や関宿の代官を務めた
誕生・死没
- 誕生:不 明
- 死没:不 明
- 享年:不 明
官 位
- 左馬助、尾張守
所 属
松田家
藤原鎌足を先祖とした一族。13代目藤原公光の時に相模守となり相模国秦野に移り住み、14代・藤原経範の時に「波多野」に改姓した。その後、19代・義常が松田郷に住み、その子・有常は「松田」を称して松田次郎と名乗ったのが松田家の始まりとされている。
室町時代後半の松田家は、小田原城の大森氏や扇谷上杉氏と敵対していた。そんな中、北条早雲伊豆国より相模国へ侵攻してきた。当時の当主・松田頼秀は早雲の相模国侵攻に協力し以降、松田家は北条家の家臣となり、家中では北条家一族に次ぐ権力を持った。
北条家での活躍
小田原城の奉行と評定衆を務めた。
また、1555年頃から鎌倉街道の要所であり、北条氏の直轄地である下総国・関宿の代官を兼務しており、北条家の内政面で活躍した。
1558年4月に古河公方・足利義氏が鶴岡八幡宮に参拝した後、小田原城内で招かれた北条氏康主催の宴会では終了の挨拶を宿老達の中で一番始めに行い、義氏に馬と太刀を贈呈している。
1559年頃の史料から松田家の家督者が嫡男・憲秀になっていることからこの頃には家督を譲っていたものと推測される。没年は不明だが、以後の記録に乏しいため、前後に没したと思われる。