主君・義頼に反乱を起こしたがこれに敗れ家臣に殺された
正木 時茂
概 要
里見家臣。里見家の重臣・時忠またはその末弟・弘季の子という。伯父・時茂の養子となって家督を継ぐ。主君・義頼の強引な家督相続に憤激して謀叛を起こすが敗れ、家臣に殺された。
ポイント
- 正木時忠もしくは弘季の子、正木時茂の養子となる
- 北条軍の猛攻を耐え抜く
- 主君・義頼に反乱を起こすがこれに破れ家臣に殺される
目 次
誕生・死没
- 誕生:1549年
- 死没:1581年
- 享年:32歳
同い年の武将
名 前
- 房王丸(幼名)
- 弥九郎(通称)
官 位・役 職
- 官位:大膳亮
所 属
略 歴
1549年 | 0歳 | 誕生 |
1564年 | 15歳 | 第二次国府台合戦で里見家が敗北 北条家が里見家に猛攻を仕掛ける |
1565年 | 16歳 | 北条家の矢作城を落とす |
1567年 | 18歳 | 三船山合戦で北条軍に勝利する |
1574年 | 25歳 | 主君・義堯が死没 里見義弘が家督を継ぐ |
1578年 | 29歳 | 里見義弘が死没 里見義頼が家督を継ぐ |
1581年 | 31歳 | 里見義頼に反乱を起こすが破れ死没 |
出 自
☆ 実父は正木時忠か?正木弘季?
憲時の実父については諸説あり、通説では正木時綱の末子である弘季(時茂の弟)とするのが一般的だが同じく時綱の次男である正木時忠とする説もある。
いずれにせよ、憲時は嫡子に恵まれなかった叔父・正木時茂の養子となった。
第二次国府台合戦
★ 正木家当主・信茂が討ち死にすると憲時が正木家の家督を継ぐ
1564年、第二次国府台合戦が里見軍の敗戦に終わり、実父・弘季と正木家当主の信茂が討死した。そのため、憲時は正木氏を継いで大多喜城を領した。
この敗戦を契機に、里見氏は北条軍の反攻を受けることになるが、憲時はそれを懸命に防ぎ、逆に米ノ井城や矢作城を落としている。
死 没
★ 義頼に叛旗を翻すがこれに破れ殺害される
1574年の義堯の死後は、その子・義弘に引き続き仕えた。義弘の死後に義頼に反乱を起こしたため、義頼に城を攻められて敗北。最期は太田康資とともに家臣に殺されたという。