概 要
真里谷家5代目当主。信保の次男。父・恕鑑の死後、異母兄の信隆と家督を争う。小弓公方・足利義明の後援を受けて信隆を追放し真里谷家の家督を継ぐが、義明死後は力を失い、北条家の支援を受けた信隆に破れ里見家を頼った。
ポイント
- 真里谷家5代目当主
- 真里谷恕鑑の実子
- 異母兄・信隆との家督争いに勝利する
- 小弓公方の死後は力を失い、里見家を頼った
誕生・死没
- 誕生:1515年
- 死没:1552年
- 享年:37歳
所 属
略 歴
1515年 | 0歳 | 真里谷恕鑑の次男(実子)として誕生 |
1534年 | 19歳 | 父・恕鑑死没 異母兄・信隆が家督を相続 |
1537年 | 22歳 | 信隆と家督争い勃発 信隆に勝利し真里谷家の家督を継ぐ |
1538年 | 23歳 | 第一次合戦国府台合戦 小弓公方・足利義明が戦死 北条家の支援を受けた信隆に再度家督を奪われ追放され里見家を頼る |
1551年 | 36歳 | 信隆が死没し、家督を信政が継ぐ |
1552年 | 37歳 | 里見家が真里谷信政を攻撃 信応が信政を支援する 里見家に破れ信政と共に自害する |
家督相続まで
☆ 恕鑑の正式な嫡男であったが、庶兄・信隆がが後継者として立てられていたため、両者の家督が勃発
信隆は真里谷家3代目当主・真里谷恕鑑の庶長子として誕生した。
里見氏の内紛(稲村の変)が起きると、父の恕鑑は里見義豊を支持したが、真里谷家の一族の一部は対立者の里見義堯を支持したという。
この内乱は義堯の勝利に終わり、信隆は敗れた義堯を自身の居城である峰上城に匿ったと伝えられている。
その翌年、の1534年に父の恕鑑が死去し、恕鑑の嫡子(信隆の兄)であったとみられる大夫(全鑑)も同時期に死去した。そのため、真里谷家の家督は信隆が継ぐと同時に、真里谷は相模国の北条氏綱への従属姿勢を強めていくことにった。
家督争い
★ 異母弟の信応と家督争いが起きる
家督を継いでまもなく後継者の座を異母弟の信応と対立し、抗争を繰り広げるようになった。
信隆は居城である峰上城を中心に造海城、天神台城などを版図におき、小弓公方・足利義明に支持された信応に対抗するため、里見氏や後北条氏に援軍を求めるなど頑強に抵抗したが、結局は敗れ、峰上城を明け渡し足利義明に降伏した。
このとき、峰上城を開城した後、造海城(百首城)に籠城したが、義明方に寝返った里見義堯に攻められ、和歌を百首詠むことを条件に開城をしたという逸話がある。
敗れた信隆は北条氏を頼って武蔵国金沢に逃れ隠居したとされている。
真里谷家への復権
★ 第一次国府台合戦で義明が戦死し、信隆に真里谷家を奪われる
家督争いの末、信隆の異母弟・信応が真里谷家の当主となったが、信応はまだ幼かったため佐貫城の真里谷全方(信秋)(信隆の叔父)・真里谷義信父子が実権を握ったが。
しかし、1538年、第一次国府台合戦で小弓公方側が北条軍に破れ、足利義明が戦死したため、小弓公方を頼っていた信応の勢力が弱まるった。
北条方に加わっていた信隆はこれを好機とみて、北条家の支援を得て上総に戻り、椎津城を本拠とし復権を果たした。
しかし、里見氏と結んだ信応の勢力も衰えることはなく、1541年ごろから、再び真里谷一族での内紛が再発した。
信隆は家臣の後藤氏や鶴見氏の讒言を受けて対立する笹子城の武田信茂を殺害したが、まもなくその祟りのために病没した、ということになっている。
信隆の最期
★ 家臣を殺害した祟りで死去した?
『笹子落草子』『中尾落草子』という軍記物によれば、信隆は家臣の後藤氏や鶴見氏の讒言を受けて対立する笹子城の武田信茂を殺害したが、まもなくその祟りのために病没した、ということになっている。
信隆死去後
★ 長男に真里谷全鑑という者が存在していた?
真里谷家で2度目の内乱が勃発すると、北条氏、里見氏それぞれが軍を送り真里谷武田家の勢力圏への介入を強めた。
里見氏の家臣である正木時茂は、1544年には信隆派の重鎮・小田喜城城主の真里谷朝信が時茂に討たれている。内紛の末に勢力を弱めた真里谷家は、1551年から1552年頃には信隆、信応が相次いで没したのを境に、歴史の表舞台から姿を消すことになった。