概 要
甲斐武田一族である武田信長の孫。真里谷城を居城とし、真里谷家を興した。「享徳の乱」では古河公方・足利成氏に味方したが、上杉定正方の将・太田道灌にやぶれ降伏。道灌が死没すると、再び勢力を取り戻した。
ポイント
- 武田信長の孫。武田信高の嫡男
- 戦国期に房総に版図を築いた真里谷氏の祖
- 享徳の乱で、太田道灌に敗れ、降伏する
誕生・死没
- 誕生:1433年?
- 死没:1511年
- 享年:68歳
名 前
- 八五郎丸(通称)
官 位・役 職
- 官位:三河守
所 属
略 歴
1433年 | 0歳 | 武田信高の嫡男として誕生 |
1455年 | 22歳 | 享徳の乱が勃発 |
1463年 | 30歳 | 父・信高が隠居 |
1464年 | 31歳 | 真如寺の開基となる |
1479年 | 46歳 | 太田道灌に敗れ降伏 |
1511年 | 68歳 | 死没 |
誕生と真里谷家の誕生
☆ 武田信高の嫡男として誕生し、祖父・武田信長と共に真里谷家を興する
武田信高の嫡男として誕生した、信興は祖父・武田信長と共に真里谷城に入城した。(父・信高は弟・武田道信と共に庁南城に居た)
その後、信興は地名から「真里谷氏」を名乗り、道信(庁南氏)と協力し上総を支配下に治めた。
享徳の乱
★ 足利成氏側に付くが太田道灌が擁する千葉白胤に敗れ降伏する
1455年、享徳の乱が勃発する道信は父と共に古河公方・足利成氏側として戦う。しかし、上杉定正方の将・太田道灌が古河公方の諸将を次々と破り、遂に真里谷と庁南家の支配する上総にまで侵攻した。
信興は道信と共に徹底抗戦するが、道灌の弟・太田資忠、千葉白胤の軍に敗れ降伏した。
その後、道灌が死去し上杉方の勢力が衰えると、千葉白胤が武蔵に引き返す。これを機に信興は再び勢力を戻すことになった。
以降、信興に目立った動向は無く、1511年に死去したと伝えられている。
真如寺の開基
1464年、信興は木更津市にある「天寧山 真如寺」の開基となっている。このお寺は上総武田家の菩提寺(代々代々の墓を置いている寺)となっており、現在も全国から沢山の人が足を運んでいる。