ポイント
- 真里谷家6代目当主
- 真里谷信隆の子
- 里見家の家臣・正木時茂に攻撃され自刃する
誕生・死没
- 誕生:?年
- 死没:1552年
- 享年:?歳
所 属
親 族
父 | : | 真里谷信隆 |
子 | : | 上杉義勝(宮原義勝)の正室 |
略 歴
1534年 | ?歳 | 祖父・恕鑑死没 父・信隆が家督を相続 |
1537年 | ?歳 | 信隆と叔父・信応の家督争い勃発 信応が勝利し真里谷家の家督を継ぐ 信政、父・信隆と共に相模の北条家のもとへ逃れる |
1538年 | ?歳 | 第一次合戦国府台合戦 小弓公方・足利義明が戦死 北条家の支援を受けた父・信隆が信応を追放し真理谷家の家督を継ぐ |
1551年 | ?歳 | 信隆が死没し、家督を信政が継ぐ |
1552年 | ?歳 | 里見家に攻撃され自刃する |
父・信隆の家督争い
☆ 祖父・恕鑑の死後、父・信隆と叔父・信応による家督争いが勃発
祖父・真里谷恕鑑が死没すると父・真里谷信隆が家督を相続した。
しかし、信隆は恕鑑の庶長子だったため、恕鑑の実子・真里谷信応(信政の叔父)と家督を繰り広げることになる。
このとき、信政は造海城を任され父を支援した。信隆は相模の後北条氏と結んで信応に威圧をかけるが、小弓公方・足利義明を味方につけた信応に破れた。その後、信隆は峰上城を放棄し造海城に逃れてきたが、里見義堯が攻め寄せてきたため、百首の和歌を詠むことを条件に開城に応じ、後北条氏を頼って武蔵国に逃れたという。このとき、真里谷信政は父と行動をともにしたと思われる。
第一次国府台合戦
★ 小弓公方・足利義明が北条家にやぶれ戦死、父の信隆は上総に復権を果たした
1538年、第一次国府台合戦(古河公方VS北条軍)により北条氏綱に敗れた小弓公方・足利義明が戦死すると、小弓公方を頼っていた信応の勢力が弱まり、これを好機とみた父・信隆は北条家の後援をうけ、上総に復権を果たし、椎津城を本拠地とした。
しかし、まもなくすると、里見家を頼った信応の勢力が増し真里谷一族で再び内紛勃発し、後北条氏と里見氏が支援を名目に上総に介入するようになり、真里谷武田家は勢力を弱めていった。
真里谷家の衰退
★ 真里谷家で再び内乱が勃発しこれを気に勢力が衰退していく
信隆が当主の復権を果たしてまもなく、里見氏と結んだ信応の勢力も衰えることはなく、1541年ごろから、再び真里谷一族での内紛が再発した。
この内紛を名目に北条氏と里見氏が上総に介入するようになり、真里谷武田家は勢力を弱めていくことになる。
そんな苦境のなかの1551年、父の真里谷信隆が死去し家督を信政が継ぐことになる。