ポイント
- 真里谷家3代目当主
- 真里谷信勝の嫡男
- 扇谷上杉家の要請を受け北条氏綱と敵対する
- 品川港、鎌倉を勢力圏におき真里谷家の最大版図を築く
誕生・死没
- 誕生:?
- 死没:1534年
- 享年:?歳
名 前
- 八五郎丸(通称)
- 寿里庵恕鑑(法名)
官 位・役 職
- 官位:三河守 、 式部大夫 、 式部丞
所 属
略 歴
1516年 | ?歳 | 北条家から援軍を得て原氏と戦う |
1518年 | ?歳 | 足利義明を擁立し「小弓公方」の設立に尽力する |
1523年 | ?歳 | 父・信勝が死没 |
1527年 | ?歳 | 里見家で「天文の内訌(里見義豊VS里見義堯)」勃発 恕鑑、里見義豊に味方する |
1534年 | ?歳 | 死没 |
父・信勝の功績
☆ 原氏に対抗するため足利義明を擁立し「小弓公方」を設立
年代は不明だが、恕鑑は真里谷家2代目当主・真里谷信勝の嫡男として誕生する。
父・信勝は、千葉氏の後ろ盾を持つ原氏と対立しており、これに対して1517年、2代古河公方・足利政氏の子である「空然(後の足利義明)」を擁立し、城主の原胤隆や一族の原友胤・原虎胤父子を追放し、原氏の居城である小弓城を奪取、そこに「足利義明」と名乗った空然を据え、「小弓公方」を名乗らせた。
このため、真里谷家は本家筋の長南武田家を凌ぐ勢力を誇るようになったとされている。
北条家との戦い
★ 扇谷上杉家の要請により北条氏綱と敵対する
父・信勝の死により真里谷家の3代目当主を継いだ恕鑑は、武蔵を巡って後北条氏と扇谷上杉氏との抗争が激化すると、扇谷上杉家の要請を受けて後北条氏の北条氏綱と敵対し、1524年には品川港を勢力圏に置いた。
★ 真里谷家の最大版図を築く
北条家との抗争が激しくなるなか、恕鑑は安房里見家の里見義豊と同盟を結び、後北条氏との抗争を優位にすすめ、版図を武蔵国まで拡張、品川湊や鎌倉を勢力圏に置き、真里谷家の最大版図を築いた。
その後、足利義明が北条氏綱との融和を打診するが、恕鑑はこれを拒絶したとされている。
死没と家督相続
★ 恕鑑が死没すると家中で家督争いが勃発
1533年、里見家内で「天文の内訌※」が勃発した。真里谷家内でも内乱の影響を受けて家中が義豊派と義堯派の二派に分かれ、恕鑑は義豊を支援した。しかし、乱は里見義堯の勝利に終わり、翌年の1534年に恕鑑は死没している。
また、この内乱が恕鑑死後の家中分裂の遠因を作ったといわれている。
※里見義豊が叔父・里見実堯を殺して家督を奪ったため、実堯の子・里見義堯が仇討の兵を起こした内乱
恕鑑の実名
★ 恕鑑の実名には諸説ある
「恕鑑」という名前は法名であり、当時の多くの史料においては、「寿里庵恕鑑」という法名で記録されている。
実名については、史料の上での根拠はなく、通説では「信保」としている。
しかし、近年、日本の歴史学者・黒田基樹氏は恕鑑在世時の真里谷武田氏の当主と見られる人物が「式部丞信清」と署名した銘の存在を発見し、それに基づき恕鑑の実名を「信清」と推定した。
ただし、「信清」は大多喜城の築城者として同名の人物がおり、小田喜武田氏の祖としての記録が存在し、その子孫の系譜として、子の真里谷直信、孫の真里谷朝信の流れが別個にある。黒田はこの系図については、大多喜武田氏と真里谷武田氏との深い関連性を示すものであるとはしつつも誤伝であるとする。
一方、「信保」と『真里谷殿位牌系図』に記録がある人物について、黒田はこの人物については真里谷武田氏の家督ないし家督代行者の地位にあった人物であることは肯定しつつも、恕鑑の父である信嗣(信勝)の庶子か弟にあたる「信秋」の別名で、法名「全方」で知られる人物と同一人物である可能性を示唆している。
「恕鑑」の実名に関しては明確な答えは存在しないのが現状ではある。
嫡 子
★ 長男に真里谷全鑑という者が存在していた?
日本の歴史学者・黒田基樹氏によると、恕鑑は1525年までには出家しており、家督は嫡子である武田大夫という人物に譲っていた形跡があるという。この「武田大夫」について、黒田は系図で法名「全鑑」とされる人物である可能性を示している。