概 要
真里谷家一族。上総小田喜城(後の大多喜城)城主。真里谷家で内紛が起きると真里谷信隆を支持したため敵対していた里見義堯と争い里見家臣・正木時忠に敗れ討ち死にした。
ポイント
- 真里谷一族
- 真里谷信隆を支持したため里見家と争う
- 正木時忠に敗れ戦死する
誕生・死没
- 誕生:?
- 死没:1544年
- 享年:?歳
所 属
親 族
父 | : | 真里谷信直 |
妻 | : | 後藤氏(真里谷家臣)の娘 |
子 | : | 里見義豊の妻 |
略 歴
1533年 | ?歳 | 里見家内で「天文の内訌」勃発 朝信が里見義豊を支援する |
1533年 | 20歳 | 稲村の乱により父・時綱が死没 |
1534年 | ?歳 | 真里谷恕鑑が死没し真里谷家で家督争いが勃発 真里谷信隆を支援する |
1541年 | ?歳 | 正木時忠に攻撃され戦死する |
里見家の内乱(天文の内訌)
☆ 里見家で義豊VS実堯が勃発すると娘婿の里見義豊を支援する
朝信の娘は里見家当主・里見義豊に嫁いでいた。そのため1533年ごろ里見家中の内乱「天文の内訌」(義豊VS実堯)が勃発すると朝信は義豊を支援した。しかし、義豊は実堯の嫡男・義堯に討たれてしまい、朝信は対抗して安房天津城を占拠して城主となった。
真里谷家での内乱
★ 真里谷家で家督争いが勃発すると真里谷信隆を支援し一族と対立する
1534年、真里谷家の当主であった真里谷恕鑑が死去すると、真里谷家で死後の家督争いいが勃発した。
朝信は恕鑑の庶子である真里谷信隆を支援したため、恕鑑の嫡男・真里谷信応を支持する真里谷全方などの一族や里見義堯と対立した。
死 没
★ 里見家家臣、正木時忠に攻められ戦死する
1541年頃には、里見義堯の重臣である正木時茂が天津城を攻めると、城は正木軍の攻勢を支えきれずに落城し、朝信の勢力圏は正木時茂・正木時忠兄弟の攻勢にさらされるようになった。既に真里谷武田家は内紛で弱体化し、上総は後北条氏と里見氏の草刈場と化していた。
その後も時茂・時忠兄弟の侵略は進み、劣勢の朝信は必死に抗戦したが、1544年には「上総刈谷原の戦い」で時茂に破れ戦死した。その後、居城の小田喜城は時茂によって奪われ、正木氏が東上総を支配することになった。