ポイント
- 車城城主
- 佐竹義重に重用され側近として活躍
- 関が原合戦では上杉家に属した
- 水戸城奪還を企てるが失敗し処刑される
誕生・死没
- 誕生:1547年
- 死没:1602年
- 享年:65歳
名 前
- 猛虎 ※常陸三家譜
- 義照 ※常陸誌料 車氏譜
- 忠次、車丹波(通称)
官職・役職
- 丹波守
親 族
父 | : | 車義秀 |
正室 | : | 古内義康の娘 |
兄弟 | : | 大窪久光、大窪兵蔵の室、善七郎 |
子 | : | 主膳、所右衛門、新左衛門秀猛 |
略 歴
1547年 | 0歳 | 車義秀の嫡男として誕生 | 1571年 | 24歳 | 和田昭為を佐竹家から追放(詳細不明) | 1600年 | 53歳 | 関が原合戦 佐竹氏を離れて、上杉景勝に属す 関が原合戦後佐竹氏に復帰 |
1602年 | 55歳 | 出羽国秋田18万石への移封に反発し水戸城奪還を計画するが失敗し処刑される |
概 要
人質として佐竹家に仕える。側近である和田昭為を主君・義重に戯言して追放、義重の側近となる。関ヶ原合戦の際は上杉家に属した。主家転封後、水戸城の奪回を企むが敗れて殺された。
車氏
車氏の系図は『二階堂系車氏』と『岩城系車氏』の2通りあり、斯忠は『岩城家車』氏である。
その流れは、1485年岩城常隆が車城を攻め、岩崎二階堂氏系の車氏の一族である砥上某を滅ぼした。
常隆は弟・隆景(好間三郎)を車城に配し、佐竹氏領侵攻のための拠点とした。この隆景が車氏(岩城氏系車氏)を称した。斯忠は隆景の曾孫にあたる。
佐竹家への人質
1547年、車義秀の子として誕生する。当時車氏はまだ、岩城氏の傘下にあり、対佐竹氏最前線として抵抗していたが、後に佐竹氏に降り、斯忠は半ば人質同然として佐竹義重に仕えた。
佐竹氏での活躍
1571年、側近として佐竹氏を支えていた和田昭為を義重に讒訴(落としいれ)して追放する。(諸説有り)和田昭為は白河結城氏の下に逃亡したとされる。
以降は義重の側近として智謀を武器に多くの外交工作を行った。
また武勇にも優れていたが、反面民政面では不手際が多く、そのことで城主の任を解かれ、一時追放されたこともあったと伝わる。そのため岩城氏に属して伊達氏との戦に在陣していた記録も残っている。
関が原合戦
1600年、斯忠は関が原合戦を前にして佐竹氏を離れて、上杉景勝に仕え、陸奥国福島城・梁川城に在番している。これは名目上中立の立場をとる佐竹氏が上杉氏に助力するために、反徳川の急先鋒であった斯忠を送り込んだものとも言われている。
水戸城奪還
関が原合戦後に佐竹氏に復帰するが、関が原合戦で中立の立場をとった佐竹氏に対して徳川家康は常陸水戸54万石から出羽国秋田18万石への移封を命じた。
斯忠これに猛反発。徹底抗戦を唱え、妹婿の大窪久光や馬場政直(佐竹基親の子)らと水戸城奪還を企てるものの失敗して、捕らえられ、1602年8月に磔刑(はりつけの刑)に処せられた。