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喉の渇きから騎乗していた馬を殺しその血を啜った
近藤 義武
ポイント
- 道南十二館の一つである袮保田館主
- 公卿・花山院忠長が蝦夷に配流された際の接待役
- 大坂夏の陣では主君・慶広に従って出陣
略 歴
1597年 | ?歳 | 松前慶広の次男・忠広元服時に理髪役を務める | 1610年 | ?歳 | 公家・花山院忠長の接待役を務める | 1615年 | ?歳 | 大阪夏の陣に出陣 | 1638年 | ?歳 | 死 没 |
概 要
祖父は蠣崎家に仕えた袮保田館主・近藤季常。公卿・花山院忠長が蝦夷に配流された際は、接待役を務めるなど蠣崎家の家老として活躍。大坂夏の陣では主君・慶広に従って出陣し馬の生き血を吸っている。
出 生
近藤家は祖父・近藤季常の時代から蠣崎家に仕えている。また近藤家は道南十二館の一つである禰保田館主である。
蠣崎家の家老としての活動
義武もまた蠣崎家に仕え、主君・松前慶広の次男・忠広元服時に理髪役を務め、1610年には蝦夷に配流された公家・花山院忠長の接待を務めるなど松前(蠣崎)氏の家老として活動した。
生き血啜り伝説
大坂の陣では、主君・忠広の傳役(養育係)に任じられた。
また、合戦中喉が渇いたため、騎乗していた馬を殺し腹を切ってその血を飲んだという伝説がある。