武田家が今川領に侵攻すると信玄に内応し今川氏真を裏切る

葛山 氏元かつらやま うじもと

葛山城

居城:葛山城(全景)

  ポイント

  • 今川家臣。葛山貞氏の子。葛山氏広の養子で葛山城主
  • 武田家が今川領に侵攻すると信玄に内応し今川氏真を裏切る
  • 武田家へ没落後北条家への内応が発覚し自害する

誕生・死没

  • 誕生:1520年
  • 死没:1573年
  • 享年:53歳

名 前

  • 備中守(通称)

官 位

  • 不 明

親 族

葛山貞氏
養父 葛山氏広
兄弟 葛山綱春?
  葛山信貞(信玄の子)の正室

略 歴


1520年 0歳  誕 生
1568年 48歳  武田氏が今川領に侵攻
武田家に内応
1569年 49歳  今川家の大宮城を攻める
1573年 53歳  謀反の疑いにより武田家により処刑

概 要

今川家臣。葛山貞氏の子。葛山氏広の養子で葛山城主。家臣屋敷分の年貢減免や領内社寺の保護など、自領内に独自の政策を施した。主家滅亡後は武田氏を頼るが謀反の疑いで処刑される。家督は武田信玄の六男・信貞が跡を継いだ。

葛山氏とは?

『葛山氏』とは駿河国東部の国人領主で藤原伊周の子孫とされる駿河大森氏の庶流とされる一族で、鎌倉時代には御家人として登場している。

室町時代後期頃は伊豆・堀越公方・足利政友の傘下であったが、戦国時代に入り足利政友が死没すると、今川傘下にはいるが、北条家の伊豆・相模平定にも関わっている。
この時に葛山氏の娘(善修寺殿)が北条早雲の側室となり葛山氏広と同女ではないが北条幻庵も生まれている。
葛山氏の支配領域は、今川氏の駿河、武田氏の甲斐、北条氏の相模の三国の国境沿いに位置していたため、形の上では今川氏に従属していたが、武田氏や北条氏とも関係が深かった。

武田家へ内応

氏元も当初は先の当主・葛山氏広に習って今川氏に帰属していたが、1568年に武田家が甲相駿三国同盟を破棄し今川領へ侵攻を行うと、氏元は朝比奈信置や瀬名氏ら21名と共に武田方に内応し、1569年には武田家臣・穴山信君とともに今川氏と同盟関係にある相模後北条氏の後援を受けた今川家臣・富士信忠の守る大宮城(富士宮市)を共に攻めてた。しかし、これは北条氏康の援軍もあり撃退された。

最 期

今川家が武田家によって滅ぼされると、葛山家は完全に武田の傘下となった、氏元は信玄の六男・信貞を養子とし家督を譲った。(※信貞は分郡領主として葛山城に赴任しておらず、葛山一族である御宿友綱が行っていたと考えられている。

しかし、1573年2月末、氏元は北条家への謀反の嫌疑により信濃国諏訪において処刑されてしまう。享年53歳であった。