信玄の六男。東駿河の名家「葛山家」の家督を継ぐ

葛山 信貞かつらやま のぶさだ

葛山城

居城:葛山城(全景)

  ポイント

  • 武田信玄の六男
  • 信玄の駿河侵攻後に東駿河の名家「葛山家」の家督を継ぐ
  • 織田信長の甲州征伐により甲斐善光寺にて自害する

誕生・死没

  • 誕生:?
  • 死没:1582年
  • 享年:?歳

名 前

  • 六郎(通称)、十郎(通称)
  • 武田義久(初名)

官 位

  • 不 明

所 属

親 族

武田信玄
養父 葛山氏元
油川夫人
正室 おふち(葛山氏元の娘)
兄弟 武田義信(兄)、海野信親(兄)、武田信之(兄)
  黄梅院北条氏政の正室)、見性院 (穴山梅雪の正室)
  武田勝頼(兄)、真竜院 (木曽義昌の正室)
   仁科盛信(兄)、武田信清(弟)、松姫
   菊姫上杉景勝の正室)
  葛山信貞(信玄の子)の正室

略 歴


1568年 ?歳  武田家が今川領に侵攻
葛山家が武田家へ内応
1572年 ?歳  信貞が葛山家へ養子入り
1582年 ?歳  死 没

概 要

武田信玄の六男。東駿河の名家「葛山家」へ養子入りし葛山の家督と領地を継ぐ。その後、織田信長の甲州征伐により甲斐善光寺において自刃した。生年は不詳であるが、1559年以前の出生と推定されている。

葛山家へ養子入り

1568年、武田家が駿河へ侵攻すると、駿東郡の国衆・葛山氏元をはじめとした今川家臣20数名が武田方に内応するした。
しかし、相模の後北条氏が駿相同盟に基づいて今川領国に出兵したため、葛山領は北条勢により占拠された。葛山家当主の氏元は駿河富士郡へ逃れている。

1571年には武田家が駿河東郡の深沢城が奪還すると旧葛山領を回復すると、信玄は北条氏康との同盟を終結。甲相同盟の復活で駿河支配も安定化した。葛山領では1572年には武田氏の発給文書が見られ、この頃には信貞の葛山氏継承が懸案されていたと考えられている。

葛山継承後の動向

葛山氏を継承した頃の信貞は10代前半と推定されており、信貞は葛山城には在城せず、甲府在府であったと考えられている。そのため、葛山領での政務は葛山一族であった御宿友綱が代行したされている。

1582年、織田信長の甲州征伐により、武田勝頼は滅亡の後、自刃。信貞も甲府の甲斐善光寺において自刃した。これにより葛山氏も滅亡した。