善政を行い民衆から慕われた白河結城家家臣

河東田 清重かわとうだ きよしげ

概 要

白河結城家家臣。武勇に優れたほか、伊達家との交渉や佐竹家との戦いで活躍した。また善政を行い民から慕われた。主家滅亡後は伊達家に仕えた。

  ポイント

  • 白河結城家家臣。善政を行い民から慕われた
  • 佐竹家との戦いや伊達家との交渉で活躍
  • 主家滅亡後は伊達家に仕える

誕生・死没

  • 誕生:不明
  • 死没:不明
  • 享年:不明

名 前

  • 重清(別名)、朝貞?
  • 大膳(通称)?

官位・役職

  • 上総守

親 族

河東田重治
河東田親顕

略 歴


1576年 ?歳  佐竹家に奪われた赤館城奪還戦で活躍
1589年 ?歳  白河結城家が伊達家に降る
1590年 ?歳  白河結城家が豊臣秀吉によって改易
伊達家に仕える

河東田氏とは?

白河結城家の庶流。結城顕朝の四男を子孫とし、その後「河東田郷」を領して河東田城(天王館・天王寺館)を築城し、河東田氏を名乗ったとされている。

白河結城家での活躍

清重は伊達家との交渉を任された。そのほか武勇に優れたことから佐竹家との戦いで活躍、佐竹家に奪われた赤館城の奪還戦では佐藤忠秀に従い奮戦し、赤館城の奪還に成功している。(その後、再び佐竹家に奪われている)
内政面では、領内に人民のためを考えた政治を行い領民から慕われた。

主家改易

1589年、主君・白河義親が伊達家降ると、清重は佐竹氏への備えとして関和久城の警護に当たった。
1590年に主家が豊臣秀吉によって改易させられ滅亡すると、義親と共に伊達政宗に仕え、直後には政宗から陸奥大里城の攻略を命じらた。

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子孫

子孫は代々仙台藩士となり、伊達政宗が支倉常長ら慶長使節団をヨーロッパに派遣すると、清重の子・親顕が使節船「サン・ファン・バウティスタ号」の造船奉行に命じられている。