ポイント
- 米沢八幡宮神主・片倉景重の子
- 政宗の右腕として伊達家を支える
- 白石城主となる
目 次
官職・役職
- 官位: 従五位下 備中守
親 族
略 歴
1557年 | 1歳 | 神職・片倉景重の次男として生まれる | 1567年 | 11歳 | 姉・喜多が政宗の「乳母」になる |
1575年 | 19歳 | 政宗の近侍となる |
1585年 | 29歳 | 人取橋の戦いに参陣 |
1586年 | 30歳 | 大森城主となる |
1588年 | 32歳 | 郡山合戦 |
1589年 | 33歳 | 摺上原の戦い |
1590年 | 34歳 | 小田原征伐 |
1591年 | 35歳 | 亘理城主となる |
1593年 | 37歳 | 朝鮮出兵 |
1600年 | 44歳 | 関が原合戦 |
1602年 | 46歳 | 白石城主となる |
1615年 | 59歳 | 病 没 |
概 要
伊達家臣。19歳で主君・政宗の傅役となり「智」の面で政宗を補佐した智将。政宗の主要な戦に従軍し軍功を挙げる。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣するよう政宗を説得し、伊達家の存続に貢献した。関が原合戦後は白石城を与えられ、子孫に継承された。
出 生
1557年、現在の成島八幡神社とされる八幡宮の神職・片倉景重の次男として生まれる。
生母は本沢刑部真直の娘。異父姉は政宗の乳母の喜多。伯父に意休斎景親。鬼庭綱元(喜多の異母弟)は義理の兄に当たる。
教育係の姉・喜多
景綱の両親は景綱が幼いころに相次いで亡くなっている、しかし景綱には20歳くらい年が離れていた姉の喜多が母のような存在で、景綱は喜多に養育されていた
しかし、まもなく、親戚の藤田家に養子として預けられた。だが、その藤田家に男子が産まれたため、景綱は喜多のもとにもどることとなり、再びともに暮らした。姉の喜多は文武両道に通じ、兵書を好み、講じたという。弟の景綱も喜多の教化を強く受け育った。
1567年、主君の輝宗に嫡子の政宗が産まれると、景綱の姉・喜多は政宗の「乳母」を拝命した。
火事で活躍し輝宗の小姓に昇格
天正年間初め頃、伊達家の城下米沢で大火あり、そのときの景綱の活躍が認められ、輝宗の徒小姓として仕えることとなる。その後、遠藤基信の推挙によって1575年に政宗の近侍となり、のち重臣として重用されるようになる。
政宗の右目
景綱の逸話として、政宗の命令に従い、疱瘡で失明した政宗の右目を小刀で切除。他の者がひるむ中、景綱は平然とこの命令に従ったと伝えられている。
数々の戦いで従軍し戦功を挙げる
1585年の人取橋の戦いや1586年の二本松城攻略戦の戦功を認められ大森城を与えられている。
さらに、1588年郡山合戦、1589年の摺上原の戦いなど政宗の主要な戦争の大半に参加して、伊達氏の危難を救っている。
小田原征伐
豊臣秀吉の小田原攻めの際には迷う政宗を説得して秀吉に臣従するよう述べ、政宗に小田原征伐参陣を決意させた。
この判断により政宗は秀吉との衝突を避けることができた。
関が原合戦
小田原征伐後は安達郡二本松城在番、信夫郡大森城主、奥州仕置き後は、佐沼城主、亘理城主などに任ぜられた。
1600年の関が原合戦においては上杉氏との戦闘で白石城を落とし、この功績により1602年白石城1万3000石の城主に与えられた。
死 没
1614年からの大坂の陣では病床に伏せていたため、政宗に従うことができず、嫡子の重綱(のち重長)を参陣させた。
そして1615年、病のために死去。享年59。
参考資料(引用元)
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