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小田原征伐の際に豊臣方への内通がバレ自害させられる
笠原 政尭
概 要
北条家家臣。北条家筆頭家老・松田憲秀の嫡男。後に北条家臣・笠原綱信に養子入りする。小田原征伐では父と共に秀吉に内応しようとしたが、弟・秀治に密告され発覚、主君の氏政に殺された。
ポイント
- 北条家家老・松田憲秀の長男
- 笠原家へ養子入りする
- 小田原征伐で秀吉方に内応しようとしたため氏直によって殺された
誕生・死没
- 誕生:不 明
- 死没:1590年
- 享年:不 明
名 前
- 新六郎(通称)
- 政晴(別名)
- 正巌(号)
所 属
笠原家へ養子
藤原鎌足を先祖とした一族。13代目藤原公光の時に相模守となり相模国秦野に移り住み、14代・藤原経範の時に「波多野」に改姓した。その後、19代・義常が松田郷に住み、その子・有常は「松田」を称して松田次郎と名乗ったのが松田家の始まりとされている。
室町時代後半の松田家は、小田原城の大森氏や扇谷上杉氏と敵対していた。そんな中、北条早雲伊豆国より相模国へ侵攻してきた。当時の当主・松田頼秀は早雲の相模国侵攻に協力し以降、松田家は北条家の家臣となり、家中では北条家一族に次ぐ権力を持った。
北条家での活躍
いつ生まれたか不明だが、松田憲秀の長男として誕生した。ちなみに「政」の字は北条氏政から偏諱を受けたものとされている。
笠原信為の子・康勝の養子となってその後を継いだとされていたが、近年発見された北条氏の文書では1575年に笠原綱信の子である美作守某の跡継ぎである千松が幼少であったために、1583年までの9年間の約束で陣代として笠原氏と伊豆郡代の地位を継いだことが判明している。
武田家へ内応
1579年に武田氏と北条氏の同盟関係が解消されると、政尭は戸倉城の守備を任された。ここは武田領との境にある城で、激しい戦いが予想されていた場所であったが、その後2年間、他の諸城では武田氏との小競り合いが続き、戦功をあげる報告も届いたが、戸倉城からの戦功報告はなく、家中では「臆病者」との風説が広がり、政尭の立場を悪くしていった。
そんな最中、武田家臣で沼津城主の曾根昌長から内応を持ちかけられ、1581年10月には武田氏に内応し、北条氏を離反。武田氏の支援を受け、同族(康勝の実子)の笠原照重(義弟)を攻めて敗死させている。
北条家帰還と自害
1582年、織田信長による甲州征伐により武田氏が滅亡したため、路頭に迷った政尭だったが、父・憲秀の取り成しもあって北条氏に帰参を果たした。この時、剃髪して正巌と号した。 豊臣秀吉の小田原征伐では憲秀と共に秀吉方に降ろうと計画した。
しかし、これが、弟・秀治に密告され発覚、父・憲秀は監禁、政尭は主君の氏政に殺された。
しかし、一方で、政晴は僧になり、静岡県三島市の蔵六寺を開山し、1626年に60歳で病死したとする同寺の寺伝が残っている。