蠣崎家2代目、本拠地を上国から松前に移し
アイヌ人との間に溝を作った人物

蠣崎 光広かきざき みつひろ

移動距離

  ポイント

  • 武田信広の子で蠣崎家2代目当主
  • 本拠地を上国から松前に移動
  • 約50年続くアイヌ人との抗争(ショヤコウジ兄弟の戦い)を起こす

誕生・死没

  • 誕生:1456年
  • 死没:1519年
  • 享年:43歳

名 前

  • 彦太郎(通称)

所 属

官職・役職

  • 若狭守

略 歴

1456年…武田信広の嫡男として誕生
1494年…信広が死去し、蠣崎家を継ぐ
1513年…松前の大館がアイヌ人(蠣崎家説あり)により陥落。その後、蠣崎家が大館へ入城し、本拠地を移す。
1515年…「ショヤコウジ兄弟の戦い」が勃発※1519年とも言われている。
1518年…死 去

概 要

1456年、武田信広の嫡男として誕生します。母は安東政季の娘。つまり蠣崎家と安東家の血が混じった子になります。
父・信広の後を継いで本拠をそれまでの上国から松前の大館に移し、蝦夷の経営に力を注いだ。
1515年または1519年のショヤコウジ兄弟の戦い等にも関与した。

ショヤコウジ兄弟の戦

渡島半島東部の首長・ショヤコウジ兄弟によって、渡島半島南西部を支配する蠣崎氏に対しての攻撃が開始された。劣勢に立たされていた光広は、騙し討ちのために和睦を装って酒宴を開き本拠地である松前大館へ兄弟を招く。

そこで光広は兄弟らを酒に酔わせ、宝物を差し出すふりをして兄弟らを油断させる。木槌の音を鳴らさせて騙し討ちの準備に気付かれないようにし、隙を見て仕掛けのついた戸の裏から兄弟らを襲撃。光広によってショヤコウジ兄弟は斬殺され、他のアイヌも蠣崎氏の軍勢により皆殺しにされた。この時光広が用いた刀は、父信広が蠣崎季繁から受け取った家宝来国俊であった。

2人の首長をはじめとする殺されたアイヌは館の近くに埋められ、そこに塚が築かれて「夷塚」と呼ばれた。アイヌとの講和(商舶往還の法度)が成立する季広の代まで、アイヌに対して蠣崎氏の軍勢が出撃しようとすると塚からかすかに声が聞こえたという。

参考資料(引用元)