小田原征伐に参陣し所領を安堵された岩城家当主

岩城 常隆いわき つねたか

陸奥大館城

居城:陸奥大館城
参照:いわきし観光サイト

  ポイント

  • 岩城親隆の嫡男で岩城氏17代当主
  • 伊達氏から佐竹氏寄りの戦略にシフトチェンジを図った
  • 小田原征伐に参陣し所領を安堵された

誕生・死没

  • 誕生:1567年
  • 死没:1590年
  • 享年:57歳
  • 墓所:秋田県由利本荘市岩城赤平の竜門寺
  • 墓所:東京都板橋区小豆沢の総泉寺

名 前

  • 岩城左京(通称)

官位・幕職

  • 従四位下・左京大夫

所 属

親 族

岩城親隆
桂樹院(佐竹義昭娘)
正室 岩城御前(二階堂盛義の娘)
佐竹義重の養女(継室)
伊達政隆岩城貞隆(養子)

略 歴


1567年 0歳  岩城親隆の嫡男として誕生
1578年 11歳  父・親隆が病に倒れ家督を継ぐ※実権は佐竹氏
1586年 20歳  佐竹氏側として人取橋の戦いに参陣
1588年 22歳  佐竹氏側として郡山合戦に参陣
1589年 23歳  伊達氏と和睦
1590年 24歳  小田原征伐に参陣し所領安堵
鎌倉にて死没

概 要

岩城親隆の子で岩城家17代当主。伊達氏よりから佐竹氏よりにシフトチェンジするが伊達政宗が蘆名家を破ると再び伊達氏と和睦する。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して戦功を立て、秀吉から所領を安堵されたが、北条家の降伏後間もなく、鎌倉で病没した。

岩城家継承

1567年、岩城家16代当主・岩城親隆の嫡男として誕生する。母は佐竹義昭の娘。

1578年頃父・親隆が病に倒れると、常隆が家督を継ぐことになった。しかし、常隆はまだ幼年(10歳くらい)だったため母・桂樹院及びその兄・佐竹義重が後見人となり岩城氏の実権は佐竹氏に握られることになった。

伊達氏から佐竹氏へ

常隆は伊達氏の縁戚であるため当初は伊達氏に良好な関係を築いていた。
しかし、1579年、伊達輝宗子・政宗の正室に宿敵である田村氏の愛姫(田村清顕の娘)を迎えると、岩城氏は佐竹氏寄りの戦略をとるようになった。

1584年には、伊達政宗が家督を継ぎ積極的な勢力拡大策を採ると、蘆名義広や佐竹義重らと共に、常隆もしばしば伊達氏と敵対するようになる。

伊達氏の勢力拡大

1586年『人取橋の戦い』が勃発すると常隆は佐竹氏側で参戦、この戦いで家臣・窪田十郎が伊達氏の重臣・鬼庭良直を討ち取る活躍を見せた。
翌1587年いは、伊達政宗が二本松家の二本松城を攻めると、二本松家臣・新城盛継からの要請を受け佐竹義重と共に援軍を派遣した。

1588年の『郡山合戦』でも、蘆名義広や佐竹義重らと共に出陣し伊達方と対峙するが、相馬義胤が田村氏領の併合を目的に三春城入城(田村家居城)を強行しようとすると、田村氏と宿敵関係で所領争い中であった常隆はこれに反発して中立に転じた。

1589年頃には伊達氏や田村氏領への侵攻の動きを見せるが、摺上原の戦いで勝利し蘆名氏を滅ぼすと伊達氏に勝ち目がないとさとり伊達氏と和睦した。

小田原征伐と最期

1590年、小田原征伐が始まると常隆は豊臣秀吉の要請に応えてこれに参陣し所領を安堵された。しかし、北条氏の降伏後まもなく病に倒れ、鎌倉で死去した。享年24歳であった。

その後、岩城家は佐竹義重の三男・貞隆が養嗣子となり家督を継いだ。
常隆には政隆という実子がいたが、幼少であったことや、豊臣政権の都合により家督を継ぐことは無かった。