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天文の乱では伊達晴宗側につき活躍
岩城 重隆
ポイント
- 岩城家15代当主
- 長女を伊達氏へ嫁入りさせる
- 天文の乱では伊達晴宗側につき活躍
誕生・死没
- 誕生:?年
- 死没:1569年
- 享年:?歳
官職・役職
- 官位: 従五位下・左京大夫
親 族
略 歴
1541年 | 上洛して叙位・任官される | 1542年 | 天文の乱勃発 晴宗方となる |
1543年 | 稙宗側の懸田俊宗を攻める | 1547年 | 佐竹義昭と江戸忠通の和睦の仲裁を行う 稙宗方の相馬氏を攻める |
1548年 | 田村隆顕を攻める 天文の乱終結 |
1569年 | 死 去 |
概 要
陸奥大館城主。伊達家の内紛(天文の大乱)の際は、娘・久保が晴宗の妻であった関係から、晴宗方に属した。佐竹義篤ともたびたび争った。和歌をよくした。
当主までの道
岩城家13代当主・岩城由隆の次男として誕生した。
重隆には兄・成隆(政隆)がいたとされ、由隆の跡はこの成隆が継ぎ、重隆は分家して「白土」姓を名乗っていたという。しかし、成隆はまもなく死去し、重隆が当主となったという。
家督相続後
重隆は当初、隣国の白河結城氏と同盟関係を固めることにより、当時勢力を拡大していた近隣の相馬氏や田村氏と対抗しようとした、しかし、長女・久保姫の嫁ぎ先をめぐって伊達氏や相馬氏と対立し軍事的な争いにまで発展した結果、敗れ、久保姫を伊達晴宗(稙宗の長男)に輿入れせざるをえなくなった。
久保姫を巡る争いについては諸説あり、時期も明確ではないが、その際に晴宗と久保姫の子を岩城氏の養子に迎えることを約束させたという。
天文の乱
1542年に奥州全土を巻き込んだ伊達氏内乱「天文の乱」が勃発すると、重隆は娘婿の晴宗に属した。
1543年には稙宗方の伊達郡懸田城主・懸田俊宗を攻め、1546年に稙宗方の二本松義氏が二本松氏庶流で晴宗方・本宮宗頼の拠る本宮城を攻め落とすと、重隆は逃亡した宗頼を保護するなど行った。
さらに1547年、相馬顕胤を攻め1548年には田村氏を攻め、晴宗から蘆名盛氏と共にその勇戦ぶりを賞賛された。
天文の乱終結後
1548年に天文の乱が終息すると、田村氏や相馬氏との抗争を継続する一方で、伊達氏、蘆名氏、佐竹氏との間で外交戦略を駆使し生き残りを図った。
伊達家に対しては晴宗の長男・鶴千代丸(後の親隆)を養子に迎え、佐竹家に対しては自身が隠居し家督を親隆に譲りその正室に佐竹義昭の娘を迎え友好関係を結ぼうとした。
しかし、佐竹家に関しては期待通りの結果はでず、佐竹義昭・義重父子は南奥州に進出に進出し周辺の石川氏や白河結城氏が佐竹氏への従属度を深めていくと、一門である船尾氏も佐竹氏へ従属をしていった。