将軍・足利義教を殺害したため山名・細川によって討伐された赤松家当主

赤松 満佑あかまつ みつすけ

概 要

丹後一色当主。一色義貫の子。従弟の一色教親が死去すると一色家の家督を継ぐ。その後、「応仁の乱」が勃発すると宿敵・若狭武田家に対抗し西軍に属して戦う

  ポイント

  • 丹後国一色当主
  • 応仁の乱では西軍に属して各地戦う

誕生・死没

  • 誕生:????年
  • 死没:????年
  • >

名 前

  • 千徳丸(幼名)
  • 慶誉(法名)

役 職

  • 室町幕府相伴衆
  • 丹後・伊勢半国守護
  • 尾張知多郡・三河渥美郡分郡守護

官 位

  • 従四位下左京大夫、修理大夫

主君

  • 足利義政→義尚→義稙

氏 族

親 族

一色義貫
兄 弟 義直義遠
義春義秀斯波義寛の正室
養子 義有(諸説あり)

略 歴

1451年 ??歳   教親が死去したため丹後一色家の家督を継ぎ、丹後・伊勢半国守護となる
1457年 ??歳   土一揆を鎮圧
1467年 ??歳   応仁の乱
西軍に属し戦ったため丹後守護と尾張知多郡を没収される
1469年 ??歳   細川・武田軍が丹後に侵攻
1474年 ??歳   細川と山名で和議が成立し応仁の乱が終結
義直が東軍に帰順し丹後守護に復帰
1478年 ??歳   三河から一色軍が撤退
1486年 ??歳   所領の小浜が若狭武田家に与えられたため幕府への出仕を拒否する
1490年 ??歳   幕府への出仕を再開
1492年 ??歳   自国で伊賀次郎左衛門の叛乱が勃発しこれを鎮圧
以後の動向については不明

出生と家督相続

義直の家督相続前の一色家

1440年、父・一色義貫が大和国の陣中で6代将軍・足利義教の命を受けた武田信栄により自害に追い込まれると、一色氏の当主は義教の寵臣で従弟の一色教親が就任した。
父・義貫には7人の子がいて、3人は父と共に討たれ、2人は教親に預けられて流罪となり、残りの2人は室町幕府政所執事伊勢貞国に預けられたといわれているが、義直が4人のうちいずれかは不明。

従兄弟の教親が死去し家督就任

1451年、教親が33歳で死去した。教親には家督を継げる子がいなく、義直が家督を継ぐと同時に丹後国・伊勢半国守護となった。その後、三河渥美郡・若狭小浜も知行地として手に入れる。

家督相続後

家督を継いだ義直は、8代将軍・足利義政の信頼を得て「御相伴衆」となり幕政にて活躍、1457年と1462年に発生した土一揆を諸大名と共に鎮圧、寛正年間は毎年2月17日に義直の京屋形に足利義政が訪れるのが慣例となるほど信頼を築いた。

応仁の乱

生涯のライバル若狭武田家が東軍に属したため西軍に属して戦ったため守護職を解任される

1467年に「応仁の乱」が勃発すると若狭武田家・武田信賢との確執と若狭・三河を復旧する目的から山名宗全が率いる西軍に加担した。そのため細川勝元側の東軍を支持する将軍・義政により丹後・伊勢守護職を解任させられてしまう。
また、それまで義政の側近として花の御所の側に邸宅を与えられていた義直は東軍の本拠となった花の御所や勝元ら東軍諸将の邸宅に取り囲まれる形になり、乱が始まると京都の義直邸が真っ先に攻撃対象とされ、東軍の奇襲に遭い屋敷を奪われ逃亡した(上京の戦い)。その後の「相国寺の戦い」でも占拠していた相国寺を東軍に奪還され、戦果を挙げられなかった。

丹後・尾張・伊勢で激戦が繰り広げられる
丹後では東軍の下で新守護となった武田信賢と一色家の守護代・延永氏の激戦が続き、北伊勢でも新守護・土岐政康と一色家の守護代・石川道悟との合戦が続いた。
逆に細川成之の領する三河には弟・一色義遠の率いる軍勢が尾張知多郡から侵攻し、ここでも激戦が続いてた。※一色義直が所有する尾張知多郡は1468年に幕府により没収され、乱の終結後も一色氏に返されることはなかった。
応仁の乱の終結
1474年、細川政元と山名政豊の間で和議が成立すると、義直は東軍に帰順・隠居し、嫡男・一色義春を幕府に出仕させる。
これにより幕府は丹後守護職を義春に返付、武田信賢の弟武田国信は引き渡しを拒んだが、勢いづいた丹後の一色勢は同国に駐屯していた武田勢を破り、旧領回復に成功する。

三河では1476年、一色勢が細川成之の守護代東条国氏を自害に追い込み優勢であったが、細川成之はこの事件を契機に幕府出仕を拒否、1478年、義直が三河を放棄する旨を文書で表明し三河の一色軍は撤退した。

伊勢では義春に半国守護職が与えられたが、これに反撥する北畠政郷との戦いに敗れている。

足利義尚との対立

義直の所領「小浜」が武田国信に与えられるとこれに講義するため足利義尚と対立する

義直は幕府に再出仕し、義春を後見する一方で自国の文化活動を盛んに行った。
しかし、嫡男・義春は1484年に19歳で没し、丹後守護職は義直に再度与えられた。1486年には「禁裏の意向」により義直の知行地である小浜が武田国信に与えられると、抗議のため丹後へ下向、1487年、9代将軍・足利義尚による六角高頼攻め(長享・延徳の乱)にも参陣せず、代理に次男の一色義秀を参陣させた。

足利義稙への帰順とその後

幕府への出仕を拒否した義直は自国の発展に力をいれる

丹後在国中は直接支配に当たり寺社の半済及び修復・造営を実施、1490年には歌人・正広を招き歌会を通して交流を深め自国の安定に力をいれた。

幕府への帰順

武田国信に「小浜」を奪われたことにより幕府への出仕を拒否した義直だったが、武田国信が死去したことを機に幕府への復帰を決め、1491年、10代将軍・足利義稙による2度目の六角攻めには自身で参陣し、義材に代わり首実検を行っている。

最後の動向

1493年、丹後で伊賀次郎左衛門の叛乱が勃発、鎮圧のため下向しているが、同年4月に起きた明応の政変と、それ以後の動向ははっきりしない。
1497年に丹後に在国した記録が妙立寺に残され、1500年に義材の家臣伊勢貞仍が書いた歌集『下つふさ集』で、慶誉入道の出家名で貞仍と対面した記事が残るが、それを最後に消息不明となる。

参考資料(引用元)