ポイント
- 今川家5代目当主
- 異母弟の千代秋丸との家督争いに勝利
- 足利成氏征伐に向かい鎌倉を占拠する
- 幕府に尽くし「天下一苗字」を恩賞を与えられる
官職・役職
- 官位:従四位下、民部大輔、上総介
- 幕府:駿河守護
親 族
- 父 : 今川範政
- 母 : 上杉氏定の娘
- 兄弟 : 今川範豊(兄・早死)
- 兄弟 : 今川範満
- 兄弟 : 小鹿範頼
- 子 : 今川義忠
- 子 : 今川範勝
- 子 : 今川範慶
略 歴
1408年 | 1歳 | 今川範政の次男として誕生 | 1433年 | 26歳 | 父・範政が死没 異母弟の千代秋丸との家督争いに勝利し家督を継承 |
1538年 | 31歳 | 永享の乱が勃発(幕府側として参陣) | 1540年 | 33歳 | 結城合戦が勃発(幕府側として参陣) | 1455年 | 49歳 | 足利成氏討伐に向かい鎌倉を占拠(享徳の乱) | 1460年 | 54歳 | 駿河に帰国 嫡男・義忠に家督を譲る |
1461年 | 55歳 | 死 没 |
概 要
範政の次男。今川家5代目当主。異母弟の千代秋丸と家督争いを起こすが6代将軍・足利義教の裁定により当主となった。そのため、永享の乱や結城合戦では常に幕府方として参戦し「天下一苗字」の恩賞が与えらる。
出生と家督相続
第4代当主今川範政の次男として生まれる。兄の範豊の早死によって嫡子となるが、父が晩年に範忠を廃嫡して異母弟の千代秋丸に譲ろうとしたため、兄弟間の間で家督争いが起こった。
1433年、父が死去すると鎌倉公方を警戒(幼年の千代秋丸よりも成人した範忠が後を継いだほうが安心できると考えた)した6代将軍・足利義教の裁定ににより、範忠が家督を継いで当主となった。
この時、狩野氏や富士氏など一部の反対派が持氏の支援を受けて蜂起したが、義教の強い支持を背景に三河・遠江守護の斯波氏の部隊などがこれを鎮圧している。
天下一名字
幕府のお陰で家督を継ぐことができた範忠は幕府に対する忠誠心が強く、鎌倉公方を監視する関東の監視役を務め、永享の乱や結城合戦では常に幕府方として参戦し、武功を挙げた。
そのため、義教より今川姓を範忠の子孫のみに許して同族庶流の今川姓使用を禁じる「天下一苗字」(この世に一家だけの姓とする)の恩賞が与えられ、以後範忠の直系子孫を今川氏の宗家とする事が保障された。
これにより今川家の分家遠江今川氏の範将は堀越氏を名乗ったとされる。
享徳の乱
1455年、関東で「享徳の乱」(鎌倉公方と関東管領の争い)が勃発するとは8代将軍・足利義政から鎌倉公方・足利成氏討伐を任じられて後花園天皇から御錦旗(朝敵討伐の証)を受け取ると直ちに領国に戻って、上杉氏討伐に向かっていて留守となっていた鎌倉を攻め落とした。
このため、成氏は古河に逃れて古河公方と名乗った。
1460年正月に駿河に帰国、1461年の3月20日に嫡男・義忠に家督を譲った。その後1461年ごろに死没したという。