北条早雲の次男で初代・玉縄城主

北条 氏時ほうじょう うじやす

玉縄城

居城:玉縄城(陣屋坂からの眺め)

  ポイント

  • 北条早雲の次男
  • 初代・玉縄城主
  • 里見家の鎌倉侵攻を撃退する

誕生・死没

  • 誕生:不 明
  • 死没:1531年
  • 享年:?歳

名 前

  • 新九郎(通称)、太清軒渾名(号)
  • 相模の獅子(渾名)、相模の虎(渾名)

所 属

親 族

北条早雲
小笠原政清の娘・南陽院殿?
兄弟 北条氏綱(兄) 、 葛山氏広(弟)
   北条幻庵(弟) 、 長松院殿(三浦氏員室)
北条為昌(養子・北条氏綱の子)

略 歴


1526年 ?歳  「鶴岡八幡宮の戦い」で里見家を撃退
1531年 ?歳  死 没

概 要

北条早雲の次男。初代玉縄城。北条家2代当主・北条氏綱とは兄弟の関係にあたる。里見義豊が鎌倉に侵攻した際に、戸部川で迎撃したとされている。

生 涯

伊豆国・相模国の戦国大名・北条早雲)の子として誕生した。
生年は不明であるが、兄・北条氏綱(1487年)から四弟・北条幻庵・1493年、までの間ということになる。

1526年に安房国の
里見義豊が相模国鎌倉に乱入してきた際、戸部川で迎撃したとされている(鶴岡八幡宮の戦い)。
ちなみに、戦後両陣営で首を交換し、それを埋め弔うために建てた供養塔(玉縄首塚)が残っており、供養は現在も「玉縄史蹟まつり」として毎年継承されている。

死没後

氏時には実子がなかったため、兄・氏綱の子・北条氏昌が養子となって玉縄城主を継いだ。

氏時の史料

氏時に関する史料は極めて少く。1529年5月15日付で伊豆国の三島大社護摩堂に宛てたものが初見文書である。そのためこの時は伊豆郡代または韮山城主であったと考えられ、次の文書は同年8月19日付の相模国東郡二伝寺(藤沢市)宛てのものでこの時には玉縄城主になっていたと推測される。