概 要
北条氏康の三男。武蔵天神山城主藤田家の養子となる家督を相続。上野方面の統治を任され上杉家との同盟等を実現させた。豊臣秀吉の小田原征伐では鉢形城に篭城して抗戦するが降伏。のちに前田利家に降り、子孫は加賀藩家臣として存続した。
ポイント
- 北条氏康の三男
- 藤田家の養子となり上野方面の統治を任せられた
- 小田原征伐後は前田家に仕えた
目 次
誕生・死没
- 誕生:1548年
- 死没:1597年
- 享年:73歳
- 墓所:埼玉県寄居町の正龍寺
名 前
- 千代丸(幼名)
- 新太郎(通称)
- 安房守(通称)
官 位
- 安房守
所 属
親 族
父 | : | 北条氏康、藤田康邦(義父) |
母 | : |
三山綱定の姉妹? 瑞渓院?(今川氏親の娘) |
正室 | 大福御前(藤田康邦の娘) | |
兄弟 | : | 氏親(兄)、氏政(兄)、七曲殿(北条氏繁の正室) |
氏照(弟) 、氏規(弟) 、 尾崎殿(千葉親胤の正室) | ||
長林院殿 、 蔵春院殿(今川氏真の正室) 、 | ||
上杉景虎(弟) 、 浄光院殿(鎌倉公方・足利義氏の正室) 、 桂林院殿(武田勝頼の継室) | ||
子 | : | 東国丸 、 亀丸 、光福丸北条氏勝 |
、庄三郎、養子:北条直定(氏政の六男) |
略 歴
1548年 | 0歳 | 北条氏康の三男として誕生 |
1558年 | 10歳 | 藤田家の養子となる |
1568年 | 20歳 | 鉢形城を改修 |
1569年 | 24歳 | 上杉家との同盟を取り仕切る |
1576年 | 31歳 | 安房守を名乗るようになった |
1578年 | 33歳 | 上杉家の内乱(御館の乱勃発) 景虎支援のために越後に出陣 |
1582年 | 37歳 | 神流川の戦いで滝川一益を壊滅させる |
1587年 | 42歳 | 北条氏政の息子を養子に入れる |
1589年 | 44歳 | 名胡桃城奪取事件 |
1590年 | 45歳 | 小田原征伐 鉢形城に篭城し徹底抗戦 |
1597年 | 52歳 | 小田原征伐 鉢形城に篭城し徹底抗戦 |
藤田家へ養子入り
1558年、武蔵国北部の有力国衆である藤田康邦の娘(大福御前)を正室に迎え、氏邦は藤田家の婿養子となり秩父郡天神山城に入った。
その後、無事に家督を継いだ氏邦は秩父郡天神山城から甲斐武田家との抗争のため改修した鉢形城に居城を移し、鉢形領を支配した。また、後北条氏の上野進出では先鋒を努めた。
上杉家との同盟を取り仕切った
武勇に優れていた氏邦だが、外交面でも北条家に貢献している。特に1569年に成立した上杉家との同盟では、 る由良成繁と由良への指南役を務める氏邦が交渉を取り纏める中心的な役割を果たした。
御館の乱
1578年5月、上杉氏の家督争いである「御館の乱」が起こると、氏邦は実弟・上杉景虎の援軍要請に応じ、長兄氏政の名代として、次兄・氏照と共に景虎支援のために越後に出陣した。
北条勢は三国峠を越えて越後に侵入し、上杉景勝の拠点坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、次いで坂戸城攻略に着手した。しかし景勝方はよく守り、北条方はそれ以上の攻勢に出ることができずにいた。やがて冬が近づき、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残置して関東への一時撤退を強いられた。この冬の間に景勝は攻勢を強め、景虎は明けた翌年3月に自害した。
本能寺の変後の動き
1582年、本能寺の変により織田信長が死去した。
氏邦は兄・氏政の命にしたがい領主を失った上州の織田領へ兵を侵攻させた。
「神流川の戦い」で織田の重臣・滝川一益を壊走させると氏邦は勢いそのまま、徳川家との戦い「天正壬午の乱」にも参戦した。
ちなみに天正10年までは藤田家を称していたが、それ以降から1587年11月までの間に北条姓に復姓している。
名胡桃城奪取事件
豊臣秀吉が織田信長の後釜となり天下人になると徳川・真田・北条家が豊臣家に臣従の意を示した。そのため、真田家と北条家が自分の領地である事を主張した沼田領について豊臣秀吉による裁定(裁き)が行われた。
その結果、名胡桃城を含めた全体の三分の一を真田家へ、それ以外の沼田城を中心とする三分の二は北条領と定められた。
氏政は沼田領を氏邦に管轄させ、氏邦はそれを宿老かつ沼田城代の経験もある猪俣邦憲に管轄させることにした。
しかし、同年10月22日に真田家の管轄とされていた名胡桃城内で内紛が起こった。沼田城主で北条家家臣・猪俣邦憲が名胡桃城代・鈴木重則の家臣である中山九郎兵衛を名胡桃城を占領したのである。(名胡桃城奪取事件)
真田家はこれに怒り秀吉に訴えでた。秀吉は北条家に対して関係者の引き渡し・処罰を求めたが、北条方はこれを拒否した。北条家当主氏直は豊臣側の詰問に対し、同年12月7日付け書状で「名胡桃城は真田氏から引き渡されて北条側となっている城なので、そもそも奪う必要もなく、全く知らないことである」旨を釈明している。
しかし、秀吉の怒りは収まらず、小田原征伐へと発展していくことになる。
小田原征伐
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐を前にして小田原城で行われた評定の席において氏邦は、小田原城に籠もることに反対し、駿河国に進出しての大規模な野戦を主張したがこれは反対されて、小田原城を退去して居城の鉢形城に籠城し、単独で抗戦した。
しかし豊臣方は圧倒的な大軍であり、上野国・下野国・武蔵国北部は瞬く間に制圧された。鉢形城も完全包囲され激しい攻勢に曝されると、氏邦は降伏勧告を受け入れた。
開城し、出家姿になり藤田家の菩提寺正竜寺に謹慎した。
北条家滅亡後
小田原征伐によって滅亡した北条家。氏邦は戦後の城攻めの大将であった前田利家に預けられ、家臣となり、1597年に加賀金沢にて50歳で病没した。
金沢で荼毘に付された後に、遺骨は菩提寺の正竜寺に移された。この時、菩提寺での大法要に集まった参列者の列はひと山を越える長さに及んだといわれ、かつての威勢と人望を偲ばせた。妻の大福御前は鉢形に残ったものの1593年6月9日に病死したとも、自害したとも言われている。
氏邦死後の北条家
氏邦の死去後、利家は京都紫野大徳寺で喝食(半僧半俗の有髪の少年)となっていた末子を「北条庄三郎」として氏邦の知行を相続させた。その後采女と通称を改め、前田家臣で前田家縁戚でもある前田利益の娘を妻とした。
養子の直定は小田原開城後氏直らと共に高野山にて蟄居した後は徳川家康に仕え、紀州徳川家に家臣として付された。その子氏時より紀州徳川家に仕え、氏時の子氏常(うじつね)、養子氏成(うじなり/うじしげ)、氏賢(うじかた)まで確認できる。
逸 話
剣 豪
戸田清元(富田勢源)の門人で免許皆伝でもあった。
気性の激しい性格
北条氏の滅亡のきっかけとなった「名胡桃事変の当事者である沼田城代・猪俣邦憲の指揮官であり、藤田家における義弟(養父・康邦(重利)の実子)の用土重連を謀殺したこともあって、非常に激しやすい性格と見なされることもある。
同じく義弟(重連の実弟)にあたる藤田信吉は武田勝頼、上杉景勝に仕え、北条と敵対することになる。
北条堤
武勇にも優れていたが、内政面も才能あふれていた。養蚕、林業などにも熱意を燃やし、大きな業績を残した。氏邦は養蚕を北武蔵、上野の主要産業とすべく尽力し、生糸の一大拠点を築き上げた。
また、現在の熊谷市星溪園などに残る熊谷堤跡(旧熊谷桜堤)は暴れ川の荒川から地領を守るために1574年に築堤された彼の事業とされ「北条堤」の名が残る。