細川政元の養子
両細川の乱を制し京兆細川家の家督を継ぐ

細川 高国ほそかわ たかくに

細川高国

細川高国像(東林院蔵 伝狩野元信筆 大休宗休賛)

概 要

細川京兆家15代当主。
野州家の細川政春の子に生まれた後に、細川氏嫡流(京兆家)当主で幕府管領の細川政元の養子となる。
政元が暗殺されると細川澄元と家督を争いこれに勝利すると細川京兆家の家督と幕府の実権を手中にするが、細川晴元(澄元の嫡子)に敗れ自害する。

  ポイント

  • 京兆細川家15代目当主
  • 野洲細川家・細川政春の子で細川政元の養子となる
  • 義兄弟である細川澄元にに勝利し家督と管領職に付く
  • 細川晴元に敗れ自害する

誕生・死没

  • 誕生:1484年
  • 死没:1531年
  • 享年:48歳

名 前

  • 六郎(通称)
  • 道永(法名)

役 職

  • 室町幕府 管領
  • 摂津・丹波・山城・讃岐・土佐守護

官 位

  • 従四位下武蔵守、民部少輔、右京大夫

主 君

  • 足利義澄→義稙→義晴

氏 族

同い年の人物

親 族

実父 細川政春
養父 細川政元
細川政賢(細川典厩家3代当主)の娘、一色義有の妹
一色義有の妹
兄 弟 高国晴国畠山尚順の正室
義理兄弟 澄之澄元
稙国北畠晴具の正室、山名豊定の正室
養子 氏綱 (政賢の跡目・細川尹賢の子)

略 歴

1484年 0歳   細川氏一門・野州家の細川政春の子に生まれる
1507年 23歳   養父・政元が暗殺される
義兄・細川澄之を倒す
義兄・細川澄元が当主となる
大内義興が上洛を試みる
1508年 24歳   細川澄元と対立(両細川の乱)
大内義興に加担し京都に侵攻し、澄元と将軍・義澄を近江に追放する
1509年 25歳   細川高国の家臣・三好之長の軍勢を撃退する(如意ヶ嶽の戦い)
1511年 27歳   船岡山合戦で細川澄元を撃退する
1518年 34歳   大内義興が周防に帰還する
1519年 35歳   田中城の戦いで細川澄元・三好之長らに敗れ京から逃走近江に逃走する
六角・朝倉の支援を得て京都に侵攻し政権を奪還する(等持院の戦い)
細川澄元が病死
1521年 37歳   将軍・義稙が阿波へ出奔
1525年 41歳   剃髪して道永(どうえい)と号す
家督と管領職を嫡子の稙国に譲って隠居する
1526年 42歳   阿波で細川晴元(細川澄元の嫡子)が挙兵
1527年 43歳   典厩家からる細川氏綱を養子に迎える
三好元長らに京都を侵攻され近江に逃走(高国政権の崩壊)
1531年 48歳   京都へ進軍するが三好元長に敗れ自害する(大物崩れ)

出生と野洲細川家

細川京兆家の庶流・野洲細川家に誕生する

1484年、細川氏一門・野州家の細川政春の子として誕生する。
野洲家は細川氏(京兆家)の分家の一で。細川満元の弟満国を祖とした。下野守を名乗ったことから野州家と名乗り、代々、備中国浅口郡と伊予国宇摩郡の分郡守護を務めた。

京兆細川家へ養子に

詳しい時期は不明だが、高国は細川本家である幕府管領の細川政元(京兆細川家)の養子となった。政元には実子がいなかったためである。
その後、11代将軍・足利義澄より偏諱(「高」の字)を与えられ、高国と名乗った。

永正の錯乱

養父・政元が暗殺されると義兄弟間で家督争いが勃発する

1507年、養父・政元が義兄弟である澄之派の重臣・香西元長薬師寺長忠らによって暗殺された。
暗殺後、高国は同じく義兄弟の細川澄元を支持して同族の細川政賢細川尚春(細川淡路)と共同で澄之の討伐に貢献し、澄元の家督相続を承認した。

両細川の戦い

前将軍・足利義稙を擁立した大内義興に加担し細川澄元を追放する

永正の錯乱により政権が揺らぐとこれを好機とみた周防国の大内義興は、前将軍・足利義稙を擁立して上洛を目指した。
澄元政権に反発する細川一門に擁立された高国は澄元に背いて大内義興に加担し、1508年に仁木高長(仁木氏)、伊丹元扶、内藤貞正(国貞の父)らと呼応して京に侵攻し、澄元や将軍足利義澄を近江国に追放した。
これにより高国は将軍に復職した足利義稙から京兆家当主と管領となった。

如意ヶ嶽の戦い

1509年、澄元の重臣・三好之長による京都侵攻を受けたが、大内義興と協力して退けた。

船岡山合戦

如意ヶ嶽の戦い以降も澄元の攻勢は続いだ1511年には細川政賢や赤松義村まで加担した澄元方による京への再侵攻(深井城の合戦、芦屋河原の合戦)を受け、劣勢に追い込まれた高国は内藤貞正、波多野元清、赤井時家ら高国派家臣のいる丹波にまで撤退した。しかし、澄元方の擁する前・将軍足利義澄の病死などにより勝利した。

等持院の戦い

1518年、それまで政権を支えてきた大内義興が周防へ帰国した、これによって高国は単独で政権を運営することになる。
それを好機と見た阿波の澄元・三好之長は摂津への侵攻を許し(田中城の戦い)、さらに足利義稙が澄元へ寝返ったため京から逃走し近江坂本まで敗走した。
しかし、六角定頼・朝倉孝景・土岐頼武らの支援を仰ぎ、再度挙兵。京へ反撃侵攻した高国勢は之長を自害に追い込み、澄元を摂津に敗走させ政権を奪還した(等持院の戦い)。

高国の政権

澄元が病死したことにより高国が天下人となる

高国と長年に亘り対立を続けてきた澄元が阿波で病死すると澄元に寝返った将軍・義稙の面目は失われ、敵対者のいなくなった高国は幕府の実権を握り事実上の天下人となる。

内部の引き締め強化を行う

高国は味方として武功も多かった瓦林正頼らに謀反の嫌疑をかけて殺害。自身の地位を脅かす恐れのある者の排除に乗りだし、将軍・足利義稙を京から阿波へ出奔。新将軍には義澄の遺児である足利義晴が就任した。
高国自身は1525、剃髪して道永(どうえい)と号し、家督と管領職を嫡子の稙国に譲って隠居した。
ただし、これは高国が厄年であったためにこれを機に息子に家督を譲ろうとしたもので、本人は隠退の気持ちを持っている訳ではなかった。
しかし、稙国が早死したため、高国が再び管領・細川家(細川京兆家)当主として復帰する。

細川晴元との戦い

細川澄元の遺児・細川晴元が反高国軍として挙兵する

1526年、従弟に当たる細川尹賢(典厩家4代当主)の讒言を信じて、重臣・香西元盛を謀殺した。
しかし、これを知った元盛の兄弟(波多野元清と柳本賢治)と丹波国衆の赤井時家は高国に対し挙兵、高国はこの鎮圧に尹賢を向かわせたが敗退した。
さらにそこへ、かつての敵対者であった澄元の遺児・細川晴元三好元長にまで阿波で挙兵されてしまう。再び畿内に進出した阿波勢に、丹波勢も加わって膨れ上がった敵対連合軍には、権力者の道永であっても効果的な対抗策を施せなかった。

そして、敵対連合軍の尖兵・柳本賢治や三好元長らに京に侵攻され、桂川で迎撃したが敗れ、足利義晴を擁したまま近江坂本に逃れ。高国政権は崩壊した。

川勝寺口の戦い

勢力奪還を目指す高国は越前国の朝倉孝景に軍事支援を要請、これに応じた孝景は大叔父の朝倉宗滴を総大将とし軍を派遣、朝倉家の軍事支援を得た高国は上洛を果たした(川勝寺口の戦い)。
だ しかし、その翌年に越前軍が帰国し、高国は再び近江へ逃れた。

大物崩れと最期

政権奪還を志すが晴元に敗れる

晴元によって京から追放された高国は伊賀国の仁木義広や婿で伊勢国司の北畠晴具、越前の朝倉孝景、出雲国の尼子経久らを頼って落ち延びた。
1530年に柳本賢治が播磨国出陣中に暗殺されると、備前守護代浦上村宗と連携して京に進軍し京都帰還を果たした。
帰還を果たした高国は管領の座を脅かす晴元を倒すべく、堺公方府へ進軍したしかし、晴元の重臣・三好元長からの反撃で機先を制されてしまい、摂津で足止めされ膠着状態(中嶋の戦い)に陥った。
その後、赤松政祐の裏切りにあい高国勢は総崩れとなり、村宗や主だった重臣を討ち取られた道永は尼崎に逃走した(大物崩れ)。広徳寺で自害に追い込まれた。享年48。「絵にうつし 石をつくりし 海山を 後の世までも 目かれずや見む」と言う辞世の句を、北畠晴具に送っている。

死 去

大物崩れによって敗走した高国だったが、元長たちの厳しい捜索により、紺屋の甕の中に隠れているのを発見された尼崎の広徳寺で自害に追い込まれた。享年48歳。
「絵にうつし 石をつくりし 海山を 後の世までも 目かれずや見む」と言う辞世の句を、北畠晴具に送っている。

高国の死後

高国の残党達に擁立された弟の晴国が晴元と戦うが敗れ戦死する

高国の死後、尹賢は堺公方側へ服属するも晴元の命で殺されたが、堺公方派に内紛が勃発。
続いて晴元と一向一揆の対立に乗じて、高国派の残党に弟の晴国が擁立され、石山本願寺と結んで晴元に付いた法華一揆と丹波国で戦ったが、天文5年(1536年)に敗死した(享禄・天文の乱)。

参考資料(引用元)