京都の誓願寺で修行し、宗派の曼荼羅の指導者として有名になった僧
本翁意伯
概 要
浄土宗西山深草派の僧。鳥居忠吉の次男で鳥居元忠の兄。出家して総本山である、京都の誓願寺で修行した。宗派の曼荼羅(まんだら)の指導者として有名になった後に その後、不退院の住職となった。
ポイント
- 鳥居忠吉の次男。鳥居元忠の兄
- 出家して僧となる
- 三河十二本寺の一つである不退院の住職となる
誕生・死没
- 誕生:?年
- 死没:?年
- 享年:?歳
- 死因:病死?
略 歴
1572年 | ?歳 | 正親町天皇の勅願により二条城に参内して曼荼羅を講義する |
1593年 | ?歳 | 徳川家康の異母妹・市場姫の葬儀を不退院で行う |
鳥居家とは
出自は紀伊国熊野権現の神職の家柄
鳥居家の祖である熊野新宮第19代別当行範(重氏)は平清盛から平氏の姓を賜り平氏と称し、通称「鳥居法眼」と呼ばれた。承久の乱以降の行忠の代には、三河国矢作庄に移り、土着して忠氏と改名したと伝わる。
誕 生
松平家の家臣・鳥居忠吉の次男として誕生
生まれた年は不明だが、三河国松平氏(徳川氏)の家臣・鳥居忠吉の次男として誕生する。
弟には家康の老臣で伏見城の戦いで壮絶な死を遂げた鳥居元忠などがいる。
出 家
旗本部隊の将として活躍
本翁意伯は出家して総本山である、京都の河原町四条に在する誓願寺で修行した。
また、本翁意伯は大変な博学者で、宗派の曼荼羅(マンダラ)の指導者として有名になった。
不退院の住職
修行後は岡崎城の近くの光善寺の住職をしていたが、本山の任命で三河十二本寺の一つである不退院の第6世の住職になった。
その後の活躍
マンダラの講義や家康の親族の葬儀を行う
1572年、正親町天皇の勅願により二条城に参内して曼荼羅を講義した。
その礼に正親町天皇より授法山「上衍寺(じょうえんじ)」の勅額を賜る。
1593年、徳川家康の異母妹・市場姫の葬儀を不退院で行い、その導師を勤めた。
こぼれ話
本翁意伯の弟である元忠が関ケ原合戦の前哨戦である「伏見城の戦い」で、主君・家康のため壮絶な戦死をした。
家康は忠実な部下の死を悲しみ、嫡男・忠政に磐城平藩10万石を経て、山形藩24万石の大名に昇格させている。それを知った本翁意伯は大変喜び、わざわざ山形藩まで出向くことを決意した。
しかし、高齢のために叶わず、弟子の頓翁意傳をかわりに行かせた。愛知の三河から山形藩までは、相当な距離である。そのことが記録として残っている。