ポイント
- 宇都宮広綱の三男
- 有力家臣・芳賀高継の養嗣子となり兄・国綱の右腕となる
- 主家改易後は御家再興のため石田三成に仕え、伊勢神宮に再興の願文を出すなど尽力した
誕生・死没
- 誕生:1572年
- 死没:1612年
- 享年:40歳
名 前
- 宇都宮時綱(改名前)
官位・幕職
- 左兵衛尉
所 属
略 歴
1572年 | 0歳 | 宇都宮広綱の三男として誕生 |
1592年 | 20歳 | 芳賀家の養嗣子となり家督を継ぐ |
1596年 | 26歳 | 兄・国綱から官途を付与される |
1597年 | 27歳 | 豊臣秀吉により改易される 慶長の役への参陣、石田三成に仕える |
1612年 | 40歳 | 死 没 |
概 要
宇都宮家臣。宇都宮広綱の三男。芳賀高継の跡を継ぐ。兄・国綱の片腕として活躍した。主家改易後は、石田三成に仕えた。また、御家再興のため伊勢内宮にたびたび主家再興の願文を奉納している。
宇都宮滅亡
主君・宇都宮国綱は家臣団の統制強化を目指し塩谷氏など古くからの宇都宮氏重臣から居城を奪い宇都宮への集住を強制した。
そのため、宇都宮家の古参達は力を失うなってしまい、居城・真岡城や所領を安堵されて当主の実弟としての発言力も有した芳賀氏が家中随一の勢力となった。そのため、古くからの家臣達は芳賀家の権力を抑止しようと宇都宮家中は二分されていった。
1597年、宇都宮家の重臣達は跡継ぎの無い国綱に対し豊臣政権五奉行の浅野長政の子・長重を養子に迎えようと家中で計画されると高武は強硬に反対し、高武haこれを主導した重臣・北条勝時と今泉高光を殺害・自害に追い込んだ事から、豊臣秀吉によって兄共々改易(浅野長政に石高不正を訴えられたとも伝わる)され大名としての宇都宮家は滅亡した。
改易後
実家が無くなった高武は、お家再興に尽力し、慶長の役への参陣や石田三成の配下になった。また、伊勢神宮に再興の願文を出したというが、志なかばにして1612年に死去した。(一説には宇都宮家の旧臣の多くが西軍に組して家康の会津征伐の妨害をしてしまったため御家再興は認められなかったという説もある考えられるようになっている)
その後、子の高成は水戸徳川家に仕えたといわれる。