越後守護・上杉房定の嫡男として関東の軍事を任される
上杉 定昌
概 要
上杉房定の長男として誕生。父・房定に帯同し関東に出陣し軍事を任された。
その後、長享の乱の際に白井城にて白井で従者共々自害する。
ポイント
- 越後守護・上杉房定の長男
- 関東に滞在し父・房定の代わりに軍事を仕切る
- 享徳の乱の際に白井城にて自害する
誕生・死没
- 誕生:1453年
- 死没:1488年
- 享年:36歳
名 前
- 定方(初名)
所 属
官 位
- 左馬助、民部大輔
同い年の人物
- 大井行満、京極政経、熊谷膳直、伊達尚宗、山名豊久
略 歴
1453年 | 0歳 | 上杉房定の長男として誕生 |
1454年 | 1歳 | 享徳の乱が勃発 |
1455年 | 2歳 | 房定が五十子(埼玉県本庄市)に陣を構える |
1466年 | 13歳 | 房定の子・顕定が山内上杉家に養子に入り関東管領を継ぐ |
1471年 | 18歳 | 関東の軍事を任される |
1474年 | 21歳 | 名を「定昌」と改める |
1476年 | 23歳 | 「長尾景春の乱」が勃発 白井城に駐在する |
1486年 | 33歳 | 民部大輔及び家督を譲り受ける。 |
1487年 | 34歳 | 長享の乱が勃発 |
1488年 | 36歳 | 白井城で従者共々自害する |
関東出兵
享徳の乱が勃発し父・房定と共に成氏討伐のため関東へ出兵する
1454年、関東で「享徳の乱」が勃発すると父・房定は幕府の命を受け、成氏討伐のため何度も関東へ出陣した。
1466年に1歳年下の弟・顕定は山内上杉家の家督を継ぎ、定昌も1471年頃には関東の軍事を任されるようになった。
扇谷上杉家への介入
房定は扇谷上杉家への後継者選びに介入しようとする。そのため1474年までに定方も扇谷上杉家当主・上杉朝昌から偏諱を受け名乗り「定昌」と改めた。しかし、扇谷上杉家の家督を相続しなかったことからこの策略は失敗に終わった。
長尾景春の乱
長尾景春が反乱を起こしたため白井城に引く
1476年、山内上杉家の重臣・長尾景春が上杉家に対して反乱を起こした(長尾景春の乱)、景春の攻撃で五十子陣が崩壊すると定昌は上野国白井へと引き以後は白井城に駐在するようになった。
その後、乱が収まると父・房定から官途である民部大輔と家督を譲られた。
長享の乱
白井城にて謎の自害
1487年、山内上杉氏と扇谷上杉氏の争いである「長享の乱」が起こると定昌は弟で山内上杉家の当主である顕定を支援し扇谷上杉家方の勧農城の攻撃などを行った。しかし1488年に白井で従者共々自害した。享年36歳であった。
自害の理由
自害の原因について諸説あり、上杉房能を擁立しようとする長尾能景らの陰謀であるとする説や、扇谷上杉氏による謀殺とする説、扇谷上杉定正方についていた白井城の旧城主である長尾景春ないしその与党によって襲撃されたとする説がある。
人 物
「無双の仁慈博愛の武士」
父・房定と同様に音に聞こえた風流人であり、文化人らとの交流も厚かった。訃報に触れた連歌師宗祇は定昌のことを「無双の仁慈博愛の武士」であったと三条西実隆に語っている。