北条家滅亡後、築城技術を見込まれ津軽家へ移った

大道寺 直英だいどうじ なおひで

概 要

北条家家臣。大道寺政繁の養子。実父は 舎人経忠。小田原征伐後、徳川家康預かりとなり、家康の子・義直に仕える。のちに津軽家当主・津軽信枚に築城技術を見込まれ津軽家へ移った。

  ポイント

  • 大道寺政繁の養子(政繁の再婚相手の連れ子)
  • 北条家滅亡後は家康の子・義直に仕えたのちに津軽家へ移る
  • 築城技術に優れた

誕生・死没

  • 誕生:1552年
  • 死没:1642年
  • 享年:91歳
  • 墓所: 青森県弘前市字新寺町の貞昌寺

名 前

  • 勇丸(幼名)
  • 隼人(通称)

官位・役職

  • 隼人

親 族

舎人経忠(実父) 、 大道寺政繁(養父)
遠山綱景の娘
兄弟 直繁 、 直重 、 弁誉
直次直英(養子)
大道寺直秀

略 歴


1552年 0歳  舎人経忠と遠山綱景の娘の間の子として誕生
1563年 11歳  第二次国府台合戦にて実父・舎人経忠が死没
母が大道寺政繁と再婚し政繁の養子となる
1582年 30歳  河越城代となる
1590年 38歳  小田原征伐が勃発
北条家滅亡
徳川家へ預かりとなる
1609年 57歳  名古屋城築城に携わる
1614 62歳 大阪の陣に参陣
1616年 64歳  尾張徳川家を退去し津軽家奉行衆となる
1634年 83歳  船橋騒動を収拾する
1642年 91歳  船橋騒動を収拾する

大道寺家

京都府綴喜郡宇治田原町の大導寺が発祥といわれている平氏(藤原氏とも)の流れを汲む一族で、北条家とは血の繋がりがあるとされている。
室町時代中期に大道寺重時(周勝の祖父)が従兄弟の伊勢盛時(後の北条早雲)らと伊豆国へ下向し、伊勢氏が戦国大名北条氏になるとその重臣として仕え、北条氏家中では「御由緒家」と呼ばれ、代々北条氏の宿老的役割を務め、主に河越城を支配していた一族。

出生と大道寺家に養子へ

1552年、紀伊国牟婁郡藤縄の住人であった・舎人経忠と後北条氏家臣・遠山綱景の娘との間に生まれた。
紀伊国に住んでいた舎人経忠がなぜ北条家の家臣になったのかは不明。
その後、1563年に第二次国府台合戦が開戦されると遠山綱景と共に舎人経忠は戦死した。
直英の母(舎人経忠の正室)は実家の遠山家を頼った後に、北条氏家臣の大道寺政繁と再婚し、直英は政繁の養子となった。

ちなみに、直英が養子に入った後に、4人の異父兄弟(嫡男・直繁、直重、弁誉上人、直次)が生まれたが、直英は養子のため、系図などでは最年長ながら五男と記載されている。

北条家時代

河越衆を率いていた義父・政繁は、武蔵国河越城、上野国松井田城を任されており、直英を河越城の城代とし、政繁と次男・直重が松井田城の城代、嫡男・直繁と四男・直次が小田原城に家臣として居住していた。
そのため、直英は河越城などの諸城の拡張・改修も担当していた。

小田原征伐

1590年、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、父・政繁は松井田城を拠点として、中山道方面からの豊臣方別働隊の迎撃を担当、直英は他の大道寺一族と共に河越城の守備に当たった。
ところが、松井田城はで前田利家、上杉景勝、真田昌幸らを中心とする北国勢の猛攻撃にあい降伏開城、大道寺氏は豊臣方の一角として武蔵松山城、鉢形城、八王子城の攻略に参加した。そのため河越城も降伏開城し、中山道方面隊の大将・前田利家が入城した。戦後、秀吉の命で政繁は自害したが、家康の助命懇願によって、北条氏直らと共に大道寺政繁の子供らも徳川氏への預かりとなった。

名古屋城築城

徳川家康の預かりとなった直英は次男・直重の縁で家康の九男・徳川義直に仕え、駿河国に居住した。
1609年に義直が新領である尾張国に移住すると直英は名古屋城の築城にも携わった。

津軽信枚との出会い

1614年、「大坂の陣」が勃発すると、徳川義直も徳川方として大坂に軍を進めると、直英もこれに従った。
その大坂冬の陣の最中、直英は徳川方として出陣中の弘前藩2代藩主・津軽信枚と出会う。
当時、自国である津軽に新たな城の建設を考えていた信枚は、直英が築城技術を習得していることを知り、直英を登用するため義直に交渉を行った。
その結果、1616年3月、家康・義直公認の元、直英は尾張家を退去し津軽家の奉行職となった。当初は5百石(のち1千石に加増され、家老職となる)。
※しかし、この新城は一国一城令に抵触したことにより計画中止となった。

津軽家時代

1623年に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠がその子・家光と共に、家光の征夷大将軍宣下のために上洛に信枚もこれに参加した。この際に直英が津軽勢の先手大将として上洛した。

1634年、藩内を二分する古参と新参の家臣団対立(船橋騒動)を直英が治めたと伝わる。また、津軽家に召抱えられたのち、藩主・信枚の義弟扱いであった直秀を婿養子として嫡子とした。
しかし信枚の死後の津軽家の跡目相続に不満を持った直秀は、自身に縁のある断絶した福島氏の再興を幕府に願い出ることを画策したが(大道寺直秀#跡目相続についてを参照)、突如急死した。これについて暗殺説があり、犯人は直秀の実母(満天姫)とも、直英ともいわれている。

1642年に死去した享年91歳であった。遺体は弘前市内の貞昌寺に葬られ、墓は生前に建立した義父・政繁の供養塔の傍に建てられたと伝わる。

その後の大道寺家

直英や直秀の跡は、1640年11月に3代藩主・信義の弟の為久を直秀の娘(喜久)の婿養子として相続された。この後、陸奥大道寺氏(子孫は主に大道寺隼人の名乗りを継承)は代々弘前藩の家老職を勤め、幕末以降も存続した。