概 要
御由緒六家で北条家の宿老・大道寺重時の子。内政手腕に長けていたことから重用された。鎌倉代官後、河越夜戦で扇谷上杉朝定を相手に奮闘して戦功を挙げ、戦後は河越城の城代を務めた。
ポイント
- 大道寺重時の嫡男
- 鎌倉代官、河越城城代をつとめた
- 内政手腕に長け北条氏綱の信頼が厚かった
誕生・死没
- 誕生:1495年
- 死没:1556年
- 享年:62歳
官 位
- 蔵人、駿河守
所 属
略 歴
1495年 | 0歳 | 大道寺重時の子として誕生 |
1526年 | 31歳 | 里見家との鶴岡八幡宮の戦い |
1540年 | 45歳 | 鶴岡八幡宮の社殿を再建 |
1546年 | 51歳 | 河越城の戦い 河越城城代をつとめる |
1556年 | 62歳 | 死没 |
大道寺家
京都府綴喜郡宇治田原町の大導寺が発祥といわれている平氏(藤原氏とも)の流れを汲む一族で、北条家とは血の繋がりがあるとされている。
室町時代中期に大道寺重時(政繁の大祖父?祖父?)が従兄弟の伊勢盛時(後の北条早雲)らと伊豆国へ下向し、伊勢氏が戦国大名北条氏になるとその重臣として仕え、北条氏家中では「御由緒家」と呼ばれ、代々北条氏の宿老的役割を務め、主に河越城を支配していた一族。
北条家での活躍
盛昌は、その早雲の従兄弟の子にあたり、早雲の旧名「盛時」の名前の「盛」の字を拝借し「盛昌」と名乗ったという。
早雲が死没してからは北条氏綱に仕え、内政手腕に長けていたことから重用された。
1526年に里見義豊との「鶴岡八幡宮の戦い」で社殿が焼失すると、1540年に鶴岡八幡宮の再建のための造営総奉行に任じられて笠原信為とともに再建事業にあたった。
北条為昌の烏帽子親
盛昌は氏綱の次男・北条為昌の烏帽子親を務めて、為昌に「昌」の字を与えている。為昌が玉縄城主に就任するとその後見役となり、これに関連して鎌倉代官を務めた。
河越城代として
氏綱が死没し北条氏康に交代しても盛昌の信頼は変わらなかった。
反北条連合による「河越城の戦い」が勃発すると盛昌は本陣隊に組み込まれ、氏康と共に奇襲隊として活躍。扇谷上杉朝定を相手に奮闘して戦功を挙げ、その結果河越城の城代を務めた。
その後、1556年7月12日に62歳で死去と伝えられている。跡を嫡男の周勝(重興)が継いだ。