概 要
北条家の宿老・大道寺重興?の子。北条氏康・氏政・氏直の信頼が厚く。鎌倉代官・河越城主、岩槻城代を務めた。とくに河越城主として城下町の発展に貢献している。
信長の死後には西上野・信濃方面進出の先鋒を務め小諸まで進出する。その後は松井田城主として西上野統治の中心的な役割を担って活躍するが、小田原征伐では松井田城に篭城し奮戦するが攻め寄せる大軍に耐え切れず開城。小田原北条氏降伏後、秀吉の命によって切腹した。
ポイント
- 大道寺重興の子?
- 河越城主として城下町の発展に貢献した
- 小田原征伐後、秀吉の命によって自害した
誕生・死没
- 誕生:1533年
- 死没:1590年
- 享年:58歳
- 墓所:補陀寺(群馬県安中市)
名 前
- 孫九郎(幼名)
- 政重(別名)
官 位
- 駿河守
所 属
略 歴
1533年 | 0歳 | 大道寺盛昌?周勝?の子として誕生 |
1546年 | 14歳 | 河越夜戦に傘下参陣 |
1569年 | 37歳 | 家督を継承 |
1582年 | 50歳 | 本能寺の変 信濃小諸城を攻略 |
1590年 | 58歳 | 小田原征伐 秀吉の命により自害 |
大道寺家
京都府綴喜郡宇治田原町の大導寺が発祥といわれている平氏(藤原氏とも)の流れを汲む一族で、北条家とは血の繋がりがあるとされている。
室町時代中期に大道寺重時(政繁の大祖父?祖父?)が従兄弟の伊勢盛時(後の北条早雲)らと伊豆国へ下向し、伊勢氏が戦国大名北条氏になるとその重臣として仕え、北条氏家中では「御由緒家」と呼ばれ、代々北条氏の宿老的役割を務め、主に河越城を支配していた一族。
幼少期と青年期
政繁が史料に登場するのは史料に登場するのは1569年からのため、幼少期と青年期など政繁が家督を継ぐまでの事柄については分かっていない。
しかし、名前にある「政」の字は氏政の偏諱を賜ったものだとも言われている。
河越の発展と坂戸の開発
河越城代を務めていた頃は城下の治水をはじめ、金融商人を積極的に登用したり、掃除奉行、火元奉行などを設けて城下振興を行うなど優れた内政手腕を発揮していたという。
1584年には新たに坂戸宿を開き、現在の坂戸市発展の礎となっている。
河越夜戦
1546年の「河越城の戦い」では、まだ14歳の政繁が上杉憲政の家臣・本間近江守と一騎討ちをして勝利したという逸話が残っている。本間は剛の者として知られていたが孫九郎に敗北し、自身の馬印である「九つ提灯」を孫九郎に託し討たれた。その後北条家の武将は、この本間にあやかって旗指物に提灯を差すようになったと言われている(甲陽軍鑑)。
本能寺の変後の動き
1582年、「本能寺の変」が起こり信長が討死して織田家中が混乱すると、その隙に北条氏は上野国を奪還し、逆に甲斐・信濃へ侵攻する(天正壬午の乱)。
政繁は西上野・信濃方面進出の先鋒を務め小諸まで進出し信濃小諸城を攻略した。
その後も最前線を担当し徳川家康と対峙するが、北条と家康の間に講和が成立し、政繁らも信濃より引き上がっている。
その後は松井田城主として西上野統治の中心的な役割を担って活躍した。
小田原征伐
松井田の戦い
「名胡桃城事件」がきっかけとなり、豊臣秀吉による小田原征伐が勃発すると、政繁は拠点の松井田が中山道の入り口であることから、前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの大軍を碓氷峠で迎え撃とうとする。
しかし、兵力で劣勢にあり敗北した。そして籠城戦を覚悟し、城に籠もって戦うが、圧倒的な大軍の前に郭を次々と落とされたため、政繁らは討ち死にを覚悟して孫を脱出させたが、真田昌幸が見て見ぬふりをしたという。水脈を断たれた上兵糧を焼かれ、ついに本丸に敵兵が及ぶに至り、開城降伏した。
道案内役
松井田城の開城後、政繁は豊臣方に加えられ忍城攻めの道案内を務め、武蔵松山城、鉢形城、八王子城攻めと北条氏の拠点攻略戦に加わっている。特に八王子城攻めにおいては、城の搦手の口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し最も働いたとされている。
自 害
豊臣の大軍によって小田原城が陥落すると、秀吉は北条氏政・氏照・松田憲秀・大道寺政繁に開戦責任を問われた。
政繁が豊臣方に寝返ったのに処罰を受けた理由として下記の説がある。
- ・秀吉の軍監と意見が対立し讒言された
- ・秀吉に寝返りを嫌われた
- ・北条氏の中心勢力を一掃させたかった
そして、政繁は自らの本城である河越城下の常楽寺(河越館)にて切腹を命じられた。享年58歳であった。
一説には江戸の桜田で処刑されたともいわれる。大道寺氏は政繁の死によって一旦滅亡した。