概 要
石浜城を本拠地とした、武蔵千葉家6代目当主。北条家家臣。 北条家が足利公方に味方した梁田持助を攻めた際に胤宗もこれに従軍し戦死した。
ポイント
- 武蔵千葉氏6代目当主
- 北条家家臣
- 梁田持助を攻めた際に戦死した
誕生・死没
- 誕生:不 明
- 死没:1574年
- 享年:不 明
所 属
親 族
父 | : | 千葉胤利 |
子 | : | 娘(千葉直胤正室) |
略 歴
1574年 | ?歳 | 関宿城の戦いで戦死 |
武蔵千葉氏
☆ 千葉氏は桓武天皇を子孫とする下総国のナンバー2
千葉氏の子孫は桓武天皇を先祖とする桓武平氏の「平忠常」。下総国No.2の立場で関東八屋形の名家であった。
室町時代(1455年)、享徳の乱が勃発すると、千葉氏の筆頭家老であった
馬加氏、原氏がこれに便乗し千葉家16代当主千葉胤直の息子・千葉胤将(17代目)、千葉胤宣(18代目)を討って千葉宗家を滅ぼし千葉家を乗っ取った。
これに対し室町幕府は太田道灌や東常緑らに下総国侵攻を命じ、道灌らは千葉氏16代当主・胤直の弟で千葉氏嫡流の千葉胤賢(武蔵千葉氏初代)の遺児・実胤、自胤を擁立し下総国に侵攻した。
この胤賢の家系が「武蔵千葉氏」の系統である。
ちなみにこのとき原氏ら千葉家臣団が古河公方の支援を受けて擁立した・千葉氏14代目当主・千葉満胤の次男・馬加(千葉)康胤の庶子・千葉輔胤の系統である。
つまり、室町幕府側が「武蔵千葉氏」、古河公方側が「下総千葉氏」となる。
その後、享徳の乱が終わり幕府と古河公方が和睦したため武蔵千葉氏は下総国への帰還が叶わず石浜城(現在の浅草)を中心とした小領主に転落することになった。
生 涯
☆ 関宿城の戦いで戦死
武蔵千葉氏5代目当主・千葉胤利の嫡男として誕生するが出生年については詳しいことはわかっていない。
父・胤利の死後、武蔵千葉氏の家督を相続し武蔵千葉氏6代当主となる。また、この頃の武蔵千葉氏は北条家に属していた。
1574年、古河公方・足利義氏の宿老・梁田持助が北条家に反旗を翻したため、北条家は持助の居城・関宿城を攻撃した。
胤宗も関宿城を攻めに加担したが、討ち死にした。