概 要
石浜城を本拠地とした、武蔵千葉家2代目当主。
享徳の乱の後、千葉家は「下総千葉家」(古河公方派)と「武蔵千葉家」(室町幕府)に分裂した。
実胤は武蔵千葉家の当主として下総千葉家と戦い続けた。
ポイント
- 武蔵千葉氏2代目当主
- 千葉胤賢の嫡男
- 下総千葉家と戦う
誕生・死没
- 誕生:1442年
- 死没:不 明
- 享年:不 明
所 属
- 武蔵千葉家
略 歴
1542年 | ?歳 | 千葉胤賢の嫡男として誕生 |
1555年 | ?歳 | 享徳の乱勃発 父・胤賢が戦死 千葉宗家断絶 |
1556年 | ?歳 | 武蔵国へ逃亡 東常緑と共に馬加氏を滅ぼす |
1562年 | ?歳 | 隠遁する |
享徳の乱
☆ 原胤房と馬加康房に急襲され千葉宗家が滅亡
1455年、関東寒冷の上杉家と古河公方足利氏が対立して享徳の乱が勃発した。
千葉氏は上杉家に属したが、古河公方派の重臣・原胤房と同族の馬加康胤が千葉氏宗家
生 涯
☆ 関宿城の戦いで戦死
武蔵千葉氏5代目当主・千葉胤利の嫡男として誕生するが出生年については詳しいことはわかっていない。
父・胤利の死後、武蔵千葉氏の家督を相続し武蔵千葉氏6代当主となる。また、この頃の武蔵千葉氏は北条家に属していた。
1574年、古河公方・足利義氏の宿老・梁田持助が北条家に反旗を翻したため、北条家は持助の居城・関宿城を攻撃した。
胤宗も関宿城を攻めに加担したが、討ち死にした。