千葉家24代当主。北条軍に属して戦う

千葉 昌胤ちば まさたね

概 要

千葉家24代当主。元は小弓公方の傘下であったが嫡男・利胤の正室に北氏の娘を迎え北条家との関係を強くし小弓公方から離反する。そのため第1次国府台合戦では北条家側として参戦し小弓城を奪還する。

  ポイント

  • 千葉氏24代目当主
  • 北条家と婚姻関係を築く
  • 北条家側として第1次国府台合戦に参戦し小弓城を奪還する

誕生・死没

  • 誕生:1495年
  • 死没:1546年
  • 享年:51歳
  • 墓所:千葉県佐倉市海隣寺

名 前

  • 不明

官位・役職

  • 下総権守

所 属

親 族

千葉勝胤
利胤胤富親胤(異説あり)

略 歴


1495年 0歳  千葉勝胤の嫡男
1505年 10歳  元服
1509年 14歳  父・勝胤が隠居
家督を相続
1520年 25歳  足利義明(小弓公方)が挙兵したため相模北条氏と連携して小弓公方派と対抗
1527年 32歳  北条家と小弓公方が和議を結ぶ
1532年 37歳  父・勝胤が死没
嫡男・利胤の正室に北条氏綱の娘を迎える
1534年 39歳  義明に攻められて降伏
1537年 42歳  小弓公方と北条家が対立
小弓公方から離反
1538年 43歳  北条家方側として第1次国府台合戦に参戦し勝利し小弓城を支配下に置く。
1546年 51歳  死 没

家督を相続

1505年、10歳で千葉妙見宮(千葉県千葉市中央区)で元服する。その4年後父が隠居・出家したことに伴って家督を継承した(だが、実権は依然として勝胤が保有していた)。

足利義明(小弓公方)との戦い

足利義明挙兵

昌胤が家督を継いでしばらくすると古河公方家では内紛が生じて足利高基が父・政氏や弟・義明を追放して古河公方に就任した。昌胤は高基を支持した一方で隣国上総を治める真里谷信清が義明を迎え入れて千葉家中にもこれに呼応する動きがあった。
1520年、足利義明軍千葉氏の筆頭重臣・原氏の居城であった小弓城を奪い、「小弓公方」を自称して古河公方と対立した。

足利義明との戦い

昌胤は小弓公方派に対抗するため昌胤は当時急速に勢力を広げつつあった相模北条氏と連携した。しかし、1527年に北条氏綱と足利義明が和睦すると、千葉氏・真里谷氏・里見氏もこれに加わり、義明傘下に加わった。
 1532年には父・勝胤の死によって家中の実権を完全に掌握した昌胤は利胤の正室に北条氏綱の娘を迎えた。

第1次国府台合戦

1537年、足利義明と北条氏綱の関係が悪化すると、古河公方・足利晴氏に内応して義明から離反し北条家に側になった。
1538年小弓公方・足利義明が北条氏討伐に向かうと昌胤は古河公方・足利晴氏の命で高城胤吉とともに北条氏側として第1次国府台合戦に参戦、義明の戦死を知ると兵を小弓城に進めて攻略し18年ぶりに同城を千葉氏の支配下に取り戻した。

その後
第1次国府台合戦の勝利により北条氏の勢力は房総半島にも進出するようになって千葉氏も次第にその影響を強く受けるようになる。昌胤の死後、千葉氏は北条氏の事実上の傘下(家臣と)なった。