概 要
千葉家23代当主。佐倉城下を発展させた人物。足利義明(小弓公方)が挙兵すると、古河公方と共にこれを攻撃した。和歌にも通じ「佐倉歌壇」と称される和歌集団を形成した。
ポイント
- 千葉氏23代目当主
- 本佐倉の城下町を発展させる
- 足利義明(小弓公方)が挙兵するとこれを攻撃する
誕生・死没
- 誕生:1471年
- 死没:1532年
- 享年:62歳
- 墓所:佐倉の常奯山勝胤寺
名 前
- 次郎(幼名)、千葉介(通称)
官位・役職
- 下総権守
所 属
略 歴
1471年 | 1歳 | 千葉孝胤の嫡男として誕生 |
1492年 | 22歳 | 千葉氏の家督を継ぐ |
1502年 | 32歳 | 古河公方と対立 |
1505年 | 35歳 | 嫡男・昌胤が元服 |
1509年 | 39歳 | 隠居 |
1517年 | 47歳 | 足利義明(小弓公方)が挙兵 |
1532年 | 61歳 | 死没 |
家督を相続
1492年2月15日、父・孝胤が出家したため家督を継ぐが、実権は孝胤が握ったままだった。また古河公方の支援の下で千葉氏当主を名乗ったため、勝胤も千葉氏当主とされている(後期千葉氏)。そのため、享徳の乱では古河公方側について戦っている。
足利公方との対立
時期は不明であるが、古河公方と千葉孝胤・勝胤親子が不和となり、1502年~1504年にかけて政氏親子が千葉氏討伐に向かい、本佐倉城に近い篠塚陣(小篠塚城のこととされる)を拠点として千葉氏を攻めたが、両上杉氏の対立の激化によって和睦に至った。
勝胤は1509年に隠居し、子の昌胤に家督を譲ったが、実権は保持しており、古河公方家の内紛にも関与した。
享徳の乱
伊豆国出兵
孝胤が家督を継いだ年、古河公方は伊豆の堀越公方を討伐するため、伊豆に兵を向けた孝胤もこれに従軍した。らの古河公方側は堀越公方足利政知を討つべく、伊豆国三島へ兵を進めた。
初めこそ兵力差で勝る古河公方が優勢であったが堀越公方は、山内上杉家の軍と合流し勢いを盛り返し形成は逆転、退却した孝胤らの軍勢は散々に叩かれ壊滅状態となった。
足利義明(小弓公方)との戦い
1517年、古河公方・足利政氏の次男・足利義明が突然挙兵し、上総武田氏とともに千葉氏の家臣である原氏の小弓城(現在の千葉市中央区南生実町)を制圧し小弓公方を自称した。
これに対して勝胤は、現状を古河公方・足利高基(義明の兄)に書状で知らせ、1519年には高基とともに義明が滞在していた上総椎津城を攻撃している。
また、北条氏綱に小弓奪還のための援兵を求めたものの、当時義明との政治的取引を期待していた氏綱に拒絶され、義明を攻めることを断念した。
最 期
1532年5月21日に死去した。一説には1533年に戦死したとも言われている。
逸 話
和 歌
勝胤は和歌にも深い関心を持ち、彼とその家臣団は「佐倉歌壇」と称される和歌集団を形成していた。勝胤自身の和歌は残っていないが、彼と親交があった歌人「衲叟馴窓」が1514年に編集した『雲玉和歌抄(雲玉和歌集)』には、千葉氏関係者の和歌が多数採録されている。彼の時代に佐倉の町が整備されて多数の寺社が建立された。勝胤自身も海隣寺・勝胤寺(ともに千葉県佐倉市内)を建立した。
佐倉町の発展
勝胤の時代に佐倉の町が整備されて多数の寺社が建立された。勝胤自身も海隣寺・勝胤寺(ともに千葉県佐倉市内)を建立した。