概 要
第5代古河公方。足利晴氏の息子。小田原で誕生し北条家の庇護のもとで成人し古河城に復帰するが、北条家の傀儡状態にあり、実権を持たなかった。死後、古河足利家が断絶したため、娘の氏が喜連川家を立てた。
ポイント
- 4代古河公方・足利晴氏の息子で5代古河公方
- 北条家の庇護のもと成人し古河公方を継承する(実権は北条家にあった)
誕生・死没
- 誕生:1541年
- 死没:1583年
- 享年:43歳
名 前
- 梅千代王丸(幼名)
官位・役職
- 従五位下左馬頭
- 従四位下右兵衛佐
- 古河公方
所 属
略 歴
1546年 | ?歳 | 足利晴氏の次男として小田原で誕生 |
1546年 | 5歳 | 河越合戦 5代目古河公方に就任 |
1554年 | 13歳 | 元服 |
1558年 | 17歳 | 鶴岡八幡宮に参拝 |
1570年 | 29歳 | 関東管領・上杉家から古河公方の継承を認められる |
1583年 | 42歳 | 死没 |
古河公方就任
1541年1月15日、足利晴氏の次男として小田原城で生まれたされている。
1546年、父・晴氏が河越城の戦いで北条氏康に敗れると相模国へ幽閉され、北条氏からの擁立を受け、義氏が古河公方となった。
その後、1554年11月に葛西城(現在の東京都葛飾区青戸)にて元服が行われ、室町将軍である足利義輝から、足利将軍家の通字である「義」の字を偏諱として受け義氏と名乗り、仮冠役は外伯父にあたる氏康が務めた。
北条家のあやつり人形
1558年、義氏は北条家の葛西城を出て、古河公方としては唯一になる鎌倉の鶴岡八幡宮におまいりを行い、公方領国入りを果たしたが、北条家の指示のもと居城は古河城ではなく関宿城とされた。
上杉謙信の関東侵攻
1561年、関東管領・上杉謙信は晴氏の次男・義氏の古河公方の継承を認めず、義氏の異母兄である足利藤氏を正統な古河公方であるとし、藤氏救援の名目で関東に進攻した。
これにより関東では北条氏と、上杉氏はじめとする反北条氏との攻防戦に突入した。義氏は小田原など古河と関係ない地を転々とし戦線には出なかったとされている。
1570年ごろ、足利藤氏が死没したのをきっかけに北条と上杉は越相同盟を計画、この締結条件として義氏は上杉謙信からも正統性と継承を認められた。これにより義氏は古河公方として悲願の古河に戻ることになった。
また、この頃に北条氏康の娘・浄光院と婚姻している。
最期とその後
1583年1月21日、死去した。享年43(満42歳没)歳であった。。嫡男の梅千代王丸が早世していたため、古河公方の家臣団は梅千代王丸の姉である氏姫を古河城主として擁立した。
名族の血筋が断絶することを惜しんだ豊臣秀吉の計らいで、氏姫は小弓公方であった足利義明の孫・足利国朝と結婚し、喜連川氏を興すこととなった。