小弓公方・義明の次男。小弓公方滅亡後、秀吉の庇護を受け「喜連川氏」として大名として復帰する

足利 頼純あしかが よりずみ

概 要

小弓公方・足利義明の次男。別名を「喜連川頼純」
父・義明が戦死し小弓公方が滅亡すると、里見家の元へ落ち延びる。
その後、娘が秀吉の側室になったことで、大名としての復帰が許され下野国喜連川城を領した。

  ポイント

  • 小弓公方・足利義明の子
  • 義明の戦死後は里見家の元へ落ち延びる
  • 豊臣秀吉の庇護を受け大名として復帰する

誕生・死没

  • 誕生:1532年
  • 死没:1601年
  • 享年:69歳

名 前

  • 国王丸(幼少期)
  • 頼純(別名)
  • 喜連川頼純

所 属

親 族

足利義明
兄 弟 義純頼純、雪下等覚院某
青岳尼(里見義弘正室)、足利晴直(上杉憲寛)正室、旭山尼
義純 、 頼純 、 雪下等覚院某青岳尼、足利晴直(上杉憲寛)正室、旭山尼
足利晴直(上杉憲寛)の正室、旭山尼

略 歴

????年 ?歳 

足利政氏の次男として誕生

????年 ??歳 

鶴岡八幡宮若宮別当として出家

1510年 ?歳 

永正の乱が勃発
下野国へ移る

1518年 ?歳 

還俗して「義明」と名乗る
真里谷氏の協力のもと「小弓公方」を名乗る

1537年 ?歳 

真里谷氏の後継者争いに介入し真里谷信隆を追放する

1538年 ?歳 

第一次国府台合戦で北条氏に破れ戦死する

誕生と幼少期

義明の誕生年について詳細はわかっていない。
第2代古河公方・足利政氏の次男として誕生した。
幼少時に出家し鶴岡八幡宮若宮別当(雪下殿)空然(こうねん)として僧籍したといわれている。
その後、「永正の乱」で父と兄・高基が対立すると、下野国に移り「宗済」と改名した。

小弓公方の設立

真里谷氏の支援を受け下総国で「小弓公方」を名乗り古河公方と対立する

1518年、兄・高基と対立していた義明は勢力拡大を図る真里谷氏と結び、下総国小弓城(南生実城)を攻撃して千葉氏家臣の原胤隆・原友胤・原虎胤・高城胤吉らを破って同城を占拠し、「小弓公方」を自称して古河公方と対立した。

北条氏との戦い

真里谷氏の後継者争いに介入

初めは義明の事を傀儡しようと支援した真里谷氏だったが、義明は江戸湾一帯を支配する勢力に成長しており、さらに真里谷信清が死去するとその力は逆転し、義明が真里谷氏の内紛に介入することになった。
そして義明は真里谷信隆を追放し、信応を真里谷氏の当主にした。

北条氏と対立

義明により真里谷氏を追われた信隆は古河公方と河越城を攻略し勢いに乗る北条家と結び義明と敵対した。

第一次国府台合戦
北条軍と小弓公方は国府台(現・千葉県松戸市)で激突した。
義明は、「足利将軍の一族である私に本気で弓を引ける者など居よう筈もない」と言い、自ら出陣して上陸した敵を討つと主張、自ら陣頭指揮をとり、一時は北条・古河公方軍に対して優勢だったが、義明の無謀な作戦に危惧し消極的だった里見義堯軍の士気が上がらず、次第に劣勢となる。
その中で弟の基頼、嫡男の義純が討ち死にし、この報を耳にした義明は氏綱軍に突撃するが、その反攻に遭って戦死した。

義明の死後

小弓公方は滅亡子孫は里見、豊臣と仕え喜連川氏として存続する

義明の死で小弓公方は滅亡したが、次男の足利頼純(頼淳)は里見義堯・義弘(義弘の正室青岳尼は義明の娘)、後に豊臣秀吉の庇護を受けて生き延び、孫の代にはとこにあたる古河公方の後裔足利氏姫をめとって喜連川氏と改姓した。関ヶ原の戦いの後に成立した江戸幕府から喜連川藩5000石の領地を与えられ、他家からの養子を迎えつつ明治維新以降も足利に復姓して存続している。

参考資料(引用元)