檜山安東5代目当主 檜山城を完成させ居城とした
安東 忠季
檜山城跡
ポイント
- 檜山安東家5代当主
- 檜山城を居城とした
- 悪政を理由に松前守護職・下国恒季を討つ
誕生・死没
- 誕生:?
- 死没:1511年
- 享年:?
名 前
- 安東太郎(通称)
- 檜山屋形(通称)
所 属
官職・役職
- 従五位下 左京大夫、贈従三位
略 歴
1456年 | ? | 父と共に秋田県西北部に侵攻し檜山城を築城 |
1488年 | ? | 父・政季が謀反に遭い自刃する 家督を継ぐ |
1494年 | ? | 檜山城の築城を完成させ居城にする |
1496年 | ? | 悪政を理由に松前守護職・下国恒季を討つ |
1504年 | ? | 日照山国清寺を創建する |
1511年 | ? | 死 亡 |
概 要
檜山安東家5代当主。父・政季が家臣に殺されたため、家督を継ぐ。
その後檜山城を築き居城とし、1496年、悪政の咎により松前守護職・下国恒季を討った。
蝦夷騒動
1496年、粗暴等行状(悪政)の悪さを理由に蝦夷島松前守護職であった一族の下国恒季が、蠣崎光広ら配下の蝦夷島館主らにより訴えられた。
忠季はこれら館主たちの意向を受けて姉の子である光広に処置を沙汰し、恒季は同年11月、忠季の手勢(実際には光広の軍勢かと思われる)により攻められ自害した。
領国経営
1494年から1495年頃には父・政季の年代から着工を開始していた檜山霧山の檜山城の修築を完成させ、1504年頃には日照山国清寺を創建するなど領国経営にも努めた。
しかし、父政季の数度に及ぶ津軽出兵の軍役負担や男鹿半島の所領争いなどから湊安東家と不和であったとも言われている。
そして1511年8月19日死亡し。嫡男の尋季が家督を継いだ。