秋田県の西北部を侵略して檜山城を築いた
安東 政季
檜山城跡
ポイント
- 檜山安東家4代当主
- 南部氏に破れ蝦夷に逃亡
- 力を蓄え秋田県北部を侵略
- 檜山城を築城する
誕生・死没
- 誕生:?
- 死没:1488年
- 享年:?
名 前
- 師季(初名)
所 属
官職・役職
- 官位
- 従五位下 左京大夫
- 贈従三位
親 族
- 父 : 安藤重季
- 子 : 安東忠季
略 歴
1454年 | ? | 大浦郷で南部氏にやぶれ蝦夷に逃亡 |
1456年 | ? | 秋田県西北部に侵攻し檜山城を築城 |
1488年 | ? | 家臣の謀反により自害 |
概 要
檜山安東氏4代当主、大浦郷で南部氏と戦い大敗して蝦夷地へ逃れた。その後、勢力を蓄えて帰環。秋田県の西北部を侵略して檜山城を築く。その後失地回復を計画し藤崎城を攻撃するが撃退し、家臣の謀反にあい自害したと伝えられている。
安東氏
安東氏は元々陸奥津軽十三湊付近を根拠とし、蝦夷地との交易を中心とした海上交通に従事する海の豪族であった。
檜山安東初代・安藤盛季の代に至り、弟を分家させ、出羽秋田郡まで勢力を拡げ、檜山系第2代安藤康季の時代には後花園天皇からも奥州十三湊日之本将軍と認められるなど、勢威を振るったが、康季の子義季は、南部氏との抗争に敗れ戦死し、ここに安東氏の直系下国家は一旦絶えた。
出 生
政季は安東家の直系ではなく、直系である安東義季(南部家との戦いで戦死)とは又従兄弟の関係性だったといわれている。
蝦夷への逃亡
1454年に大浦郷にて南部氏との戦いに破れ津軽を捨て、武田信広とともに下国家の勢力圏であった蝦夷地に渡り、被官であり娘婿であった上ノ国花沢館の蠣崎季繁に身を寄せた。
秋田北西部への侵攻
政季は茂別館館主の安東家政・大館館主の下国定季・花沢館館主の蠣崎季繁3名を「守護」に任じ、分家で秋田郡の領主であった秋田城介安東尭季(惟季)の招きに応じ、秋田小鹿島(現秋田県男鹿市)に移り、間もなく秋田河北地方(後の檜山郡、現秋田県能代市)南部氏配下の葛西秀清を滅ぼし、檜山城を築城して本拠とした。
南部氏との抗争
その後は、失地回復を計画して藤崎城等を攻撃して勢力回復を図るが失敗に終わっている。
また、この頃に、室町幕府の将軍・足利義政の偏諱を受けて師季から政季と改名している。
最 期
内部整備
1488年9月15日河北糠野城で家臣の長木大和の謀反にあい自死したと伝えられている。